2022年3月27日     大斎節第4主日(C年)

 

司祭 セオドラ 池本則子

「放蕩息子のたとえ」から学ぶこと

 大斎節第4主日のC年で与えられた福音書はルカによる福音書のみに記されている「放蕩息子のたとえ話」です。日曜学校でもよく用いられるイエス様のたとえ話の中でもよく知られている話だと思います。

 弟は自分の欲望のために父親から財産を受け取り遠い国に旅立ちます。そこで放蕩の限りを尽くして無駄遣いし、何もかも使い果たしてしまいます。そのため、生きるのに困難を覚えた弟は初めて我に返ります。自分の愚かさを反省し、父親のもとに戻って赦しを請い、息子ではなく、雇人として仕えることを願います。しかし、父親から受けた対応は思いもよらないものでした。父親は祝宴を開いて楽しみ喜んだのです。その理由は『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ』ということでした。父親にとっては、息子が遠い国でどのような生き方をしていたかということより、今自分のところに戻ってきてくれたことが何よりも喜ばしいことだったのです。父親は息子が家を出て行ってからずっと心配し続けていました。何よりも無事でいることを願っていました。
 しかし、この父親の対応に兄は嫉妬しました。大切な父親の財産を自分の欲望のままに使い果たしただけではなく、祝宴まで開いてもらっているのです。兄は言います。『わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません』。父親の望み通りに生きていることを訴えます。父親は言います。『お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ』。

 ところで、私たちはここ数年、新型コロナウイルス感染によって、生活の見直しをしなければならなくなりました。生活様式を変えざるを得ない状況がたくさんありました。
 東北地方の度重なる大きな地震によって、被災地の人々は命の危険に不安を覚え、日常生活に困難が生じました。
 ウクライナに対するロシアの壮絶な爆撃映像や住民・避難民の悲痛な叫び声を毎日ニュース等で見聞きします。人の命・人の当たり前に生活する権利がこんなにも大切にされない状況に心から怒りがこみ上げます。

 私たちは「放蕩息子のたとえ」から大切なことを学びたいと思います。
 まず、父親の弟に対する愛を通して命が他の何よりも一番大切なことを教えられています。たとえどんな理由があったとしても人の命を簡単に奪ってしまう戦争や紛争は絶対にあってはなりません。自然災害もまず命を守ることを最優先に考える必要があるでしょう。
 また、兄は感謝することなく当たり前のように日常生活を送っていましたが、父親の弟に対する出来事を通して、その当たり前の日常生活の中に神様の大きな恵みと祝福が働いていることに気づくことが大切である、ということを教えられているのではないかと思います。

 コロナ感染は身近なものですが、自然災害も戦争・紛争なども他人事ではありません。イエス様が最も大切にされていること、それは人の命と生活が守られることです。私たちは常にそのことを覚え、自分のこととして考えていきたいと思います。