司祭 ヨシュア 大藪義之
誰が見てたの? 誰が聞いてたの?
さて、民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降ってきた。すると「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」と言う声が、天から聞こえてきた。(聖書協会共同訳)
民が皆、身を沈めてもらい、イエスも実を沈めてもらったのち、祈っていると、天が開いて、聖霊が鳩のような姿でイエスにくだった。そのとき、天から声がした。「おまえはわたしの大切な子、わたしはおまえを心にかけている」 (本田哲郎神父「小さくされた人びとのための福音」)
神学生の頃から聖書を疑わしく、斜めに読むくせがあったように思います。例えば創世記1章の創造物語。神は言われた「光あれ。」 うん?これって誰が聞いていたの? とか、多くの人が愛唱聖句にする「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ1 1:16〜18)というパウロの言葉も、いつも不満を言い、祈らず、感謝もしない人々がテサロニケの教会にいたからこそ、パウロはそれを戒め、この言葉を勧めたのだ! などと読んでしまいます。これを聞いて、「なんと不遜な!」とお怒りになる方もあるかもしれません。
上記のイエスのヨルダン川での洗礼のシーンも同じで、「天が開いて、鳩のようなものがイエスに向かって降ってくる」のを誰が見、「あなたは私の愛する子」って誰が聞いていたのだろう?などと天邪鬼なことを思ってしまうわけです。
「私の心に適う者」と言われると、やっぱり十字架のその時まで罪を犯さなかったイエス様だけだろうな、私たちのようないつもぶつぶつ文句を言う者は「神様のみ心には適わない」のだろうなぁ、と思ってしまうのですが、本田哲郎神父の「小さくされた人びとのための福音」を読むと「おまえはわたしの大切な子、わたしはおまえを心にかけている」と天から声がした、と本田神父さんは訳されています。これを読むとき、ちょっとニュアンスが変わってくるような気がします。
神様は祈り続けていたイエス様に対してだけこの言葉を言われたのだろうか?
いや、ヨハネから洗礼を受けた「民」に対しても言われたのではないか?
ひいては、もしかしてもしかすると「私たち」にも言ってくださっているのではないか?
ギリシァ語原典の語順を見ると「あなたは ある 子で 私の 愛するもので」となっていて、後半は「あなたにおいて わたしは喜んだ」となっています。(日本聖公会東京教区聖アンデレ主教座聖堂講座 主日の福音に聴く −日本語で原典の意味に触れる−を参照)
「あなたにおいて わたしは喜んだ」「わたしはおまえを心にかけている」この二つの訳を読むとき、「神様のみ心に適う者ではない私をも、もしかしたら神様はイエス様と同じように、私のことも心にかけてくださっていて、私が誰かに小さな親切でもしたのを見て、神様が喜んでくださる」こともあるかもしれないなぁ、とちょっと胸をなでおろしたりしてしまう、そんな私がいます。
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