司祭 ヨハネ 黒田 裕
「貧しさ」において【列上17:8−16、マコ12:38−44】
本日の旧約は福音書の「やもめの献金」との関連で選ばれています。ここでエリヤは神さまの命により、あるやもめに養われます。これは少し前の「エリヤとカラス」の箇所からとひと続きになっています。どちらも「とるに足らないもの」(※カラス/やもめ)からむしろエリヤが養われています。
神さまはエリヤ(そしてイスラエル全体)にカラスややもめから「仕える・献げる」を学べと言っておられるように思われます。こうした背景から「やもめの献金」を見ると、「食い物に」されているひと(12:40)がむしろ神さまにふさわしい献げものをし、人びとへの「教え」「養い」になるという逆説があることに気づかされます。
この物語からいつも思い出すことがあります。それは学生時代に大阪・釜ヶ崎の夜回り活動に参加したときのことです。野宿をしている最後の方に毛布とお茶を渡して少しお話しをし、「休んでいるところ、お邪魔しました。では、お気をつけて、おやすみなさい」と立ち去ろうとした、そのとき、その人はすかさず、「気ィつけや」と手を挙げたのでした。
一瞬ふつうに返事をしかけて、すぐに私は息を呑みました。そして目に涙が浮かんできました。というのは「気ィつけや」と言ったのは野宿生活をしている方なのです。野宿生活では寒さや飢餓のみならず「シノギ」と呼ばれる路上強盗にやられることもしばしばです。にもかかわらず、彼らよりずっと安全な位置にいる私たちに「気ィつけや」と声をかけている―。このひとのなかに私はイエスさまを見てしまいます。イエスさまも危険なところから他者を思い、尽くしたのでした。「貧しさ」において献げる。それが、イエスさまが私たちのためにしてくださったことでした。
私たちは、どうしても有り余るものの中から他者や神さまに献げようとします。しかし「貧しさ」においてなお、いや、むしろ「貧しさ」においてこそ献げる道があるということを「やもめの献金」は教えてくれます。ひとからの強制ではありません。この女性もきっと尋ねられればこう答えたことでしょう。神さまから受けた恵みへ感謝の気持ちをあらわしただけ、と。
私たちもこうした感謝から、神さまの尽きることのない憐れみと恵みへの応答として、それにふさわしい献げものを、私たちのむしろ「貧しさ」において、神さまにお献げしたいと思います。
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