2021年10月31日     聖霊降臨後第23主日(B年)

 

司祭 ヨハネ 古賀久幸

受けた愛の大きさ
【申命記6章1−9、ヘブライ人への手紙7章22−28,マルコによる福音書12章28−34】

成人したお孫さんが、おばあちゃんのお葬式の後に、思い出をしみじみ語っておられました。忙しかった両親に代わって、生まれたときからずっと面倒を見てもらったこと。思春期を迎えておばあちゃんの心配が過ぎて口を出されるのが嫌で反発したこと。口うるさいと感じていたけれど、それも無鉄砲で生意気なわたしが心配だったからなんですと。そして、そんなおばあちゃんにお返しができずにお別れしたことが残念だと。愛された人にお返しをしたい、それは心から生まれる素直な気持ちに違いありません。「父と母を敬え」という律法の真意は食糧難の時、年をとった両親の皿を軽くしては(食料を減らしては)いけないというリアリティに満ちた戒めなのです。両親から受けた愛へのお返しであり、神様が与えてくださった律法にはあたたかい思いやりの血と情が通っているのです。
イエス様からさかのぼること1300年以上も前にイスラエルの部族はエジプトで奴隷の民でした。しかし、神に愛されました。民族が従順で優秀だったからでもなく、数が多かったからでもなく、小さくて虐げられ苦しみに呻いていたからでした。神はモーセを召し出して彼らをエジプトから救い出し、律法を与えて民族としての体裁を整え、荒野の旅を導き、数々の不平不満を聞きながら、ついに乳と蜜が流れる約束の土地を見せました。イスラエルは一方的に神様によって愛され、守られてきたのです。この大いなる恩寵を忘れてはいけない。指導者モーセはイスラエルに重ねて申し付けます。「聞け、イスラエルよ。われらの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と。最初にあるのは救い出してくださった神への感謝なのです。イエス様も同じことを律法学者にあらためて教えられました。イエス様はわたしたちを愛し、そして本当はわたしたちが負うべき罪や間違いを背負ってこれから苦しみを受けられようとしています。わたしたちが神を選び、イエス様を選んだのではありません。イエス様がわたしたちをまず選んでくださったのです。それはわたしたちが賢く、従順だからではなく、愚かで、小さく、頑迷で、いつも迷ってばかりいるからです。だから私たちが心を尽くしても、どれだけ力を尽くして神さまを愛してもお返しのわずかでしかないのです。神を愛すると思えば思うほど、お返しできないほどの神様からの愛の大きさを感じます。自分の受けた神様からの愛のいくばくかでもどなたかにお返しできるようになればと思うこの頃です。