司祭 パウロ 北山和民
【マルコによる福音書10章35−45】
人の子は多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのだ。(マルコ10:45)
「人の子」とは何を意味するのか? 自分のことを「人の子」と呼ぶこのナザレ人イエスとは何者か?
イエス様は、詩8篇の詩人のように、「私は何者か」という自己理解へ苦悩と救いへの道を重ねてこの言葉を用いていたのではないだろうかと想像し、本日の福音を聞きたいと思う。そして私たちは現在の状況に誠実に応えた宣教をしているだろうか考えたいと思う。
難しい「人の子」神学論争は別の機会にすることとして、本日の福音に心を潜めるなら、まず、弟子たち、つまり私たちは、イエス様から「あなたたちは私の本当の願い、本願をわかっていないなあ。だから残念ながら、私が十字架に架かるのを見るまでは、自分の姿も本当の自由もわからないのだよ。」と言われている。これは上からの哀れみではなく、「イエスとは何者かと、いつもどんな人と出会うときも自分で問い、人の中にイエス・キリストを探す癖をつけなさい。それはあなた自身を知り、自由にするだろう」という弟子(教会)への躾(しつけ、招き)として聞くのです。洗礼者ヨハネが(ヨハネ福音書1:19以下)発見したように「イエス様という他者性は、私たちのまだ知らない新しい自己」のことかもしれない。
「人の子」というのは、宗教の神と隔てられた(神ではない)人間を強調して表現した言葉。しかし、黙示文学ではその隔ては神のみが埋められるという、逆説的に神と特別な関係にある人間(天使に化けたり、人々を戦慄させる)を意味することもある。いわゆる「宗教」が役に立たなくなったかのような「末法」とか黙示思想が背景にある言葉である。つまりイエス様の自己理解の拠るところは、いつの時代にもある「地震、疫病、戦争などの災禍と、それ以上の悲惨である人間の愛の枯渇」の危機状況がある。
まさに今、コロナ禍で働き場や住まいを失くした人、寂しさと不安の中にある人に、私たちは共感を表せる教会になっているだろうか。
「あなたの身代金になってあなたに自由を得させることがわたしの本願だ。あなたは一生かけて私の葬式をする」という想像を絶するイエス様の自己理解を想像できる聖餐式が出来たら、それは若い人たちには、自己理解を新しく考え、閉塞感を打ち破る新鮮な風になるのではないだろうか。
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