司祭 サムエル 門脇光禅
「全てのものは神さまからの預かりもの」【マルコによる福音書10章17節〜】
本来的に十戒を守だけでもとてもむずかしいことと思います。誰でも全く嘘をつかないで生きることはなかなか難しいものです。もっとも昔パプアニューギニアの奥地に行ったとき現地で「嘘」という言葉がなかったのには驚きました。そこには「嘘」という概念すらありませんでした。
また「父母を大切にしたか」と言われれば僕はいまだに悔まれてなりません。
さて、今日の福音書に登場する青年(他の福音書では青年と記されています)は、それらのことは子どもの時から守ってきたと言えました。
でもまだ永遠のいのちを受け継ぐだけの確信を持てずにいたようです。思うにとても誠実な人だったのだと思います。だからこそイエスさまに聞いたのでしょう。
どうすれば良いのかイエスさまは慈しんで言いました。「欠けているものがある。持っているものを売り払って貧しい人に施しなさい」と言われたのでした。
十戒を守るだけでも大変なことなのにそれを守ってきたわけです。その上にイエスさまは、持っているものを売り払って施しなさいと促したのです。
つまり教会の教えを守っているうえに財産を売り払いなさいとイエスさまは要求するのでしょうか。もしそうなら多くの人は同じようにとてもそこまでできないと思って、同じように立ち去るしかないのではないでしょうか。
ところでペトロは胸を張って言います。「私たちは何もかも捨てて従っている」と。そのペトロをイエスさまはほめています。ところがそのペトロでさえも実は不十分であったことを私たちは知っています。イエスさまが十字架に架かると逃げました。
そのペトロをイエスさまは、知っていたはずです。しかしながら少なくとも、ここではペトロを認めています。ペトロとこの青年との違いはどこにあるのでしょう。
金持ちを批判するだけの話と聞くなら、自分は金持ちでないからと安心してしまうことになってしまいます。ペトロは少なくともイエスさまに、神さまについていこうと心を向け、歩み始めたのでした。
ところがこの青年は自分にあるもの持てるものは何一つ失いたくはないと今ある物を守ってしまったのでないでしょうか。
それは財産か地位でしょうか名誉であったのでしょうか。それらを自分の努力で得たと思ってしまったのではないでしょうか。ですから「せっかく手に入れたものを失いたくない」と思ったのでしょう。
一方のペトロは確かに財産もないし地位も低い漁師だったのです。だからこそ失うものは少なくイエスさまに従うのは比較的簡単だったのではないでしょうか。財産や名誉・地位がある人は、逆にそれが妨げになって、永遠のいのちに入れないのかも知れないのです。
今持っているもののために縛られてしまっていつの間にか動けなくなっているそんな自分になってはいないかと心配です。
天の国では財産や名誉は全く意味がないわけです。そう分かっていながらも、何一つ今あるものを失いたくないのも私の姿かもしれません。
なぜなら、今あるすべてのものは自分で得たと思っているからではないでしょうか。
持っていると錯覚しているものはただ神さまからお恵みとして与えられたのも関わらずそう思ってしまっているように思うのです。すべてのものはただ神さまからあずかっただけのことなのだと信じる信仰を持ちたいと思います。主に感謝します。
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