司祭 ヤコブ 岩田光正
「結婚は、神様の結び合わされた愛の関係」
【マルコによる福音書 10章2−9節】
日本では昨年、驚くことに年間約20万件もの離婚件数が報告されています。当然、離婚は望ましいことではありませんが、現代の社会、やむを得ない理由もたくさんあると思います。
さて、イエス様当時のユダヤ社会は、女性は男性の言わば、財産(所有物)同然の立場でした。そのため、男性の身勝手な理由で離縁することも正当化されていました。今日の福音箇所は、このような背景があったことを先ず知っておきたいと思います。
「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。イエス様は、このファリサイ派の質問に対し、「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いた」と言われます。掟は、人間の頑固さの故に書かれたもので、結婚の本質を語っているのではないと言われたのです。
その上で、イエス様は、次のように言われます。「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。従って神が結び合わせてくださったものを人は離してはならない」。
ここで、イエス様は、創世記のみ言葉を取り上げました。創世記には、人が男と女に創られた意義が記されています。最初の人アダムを創られた神は、「人は独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」と言われます。「彼に合う助ける者」と聞くと、一方的に奉仕する立場の者を想像しますが、この「彼に合う助ける者」とは、共に生きるパートナーを意味します。主なる神は、あらゆる動物を形づくり、人のところに連れて来ます。しかし、人は、その中に、「彼に合う助ける者」を見出すことは出来ません。そこで、主なる神は、人のあばら骨で女を造り、人(男)の所に連れて来ます。すると、人は「これこそわたしの骨の骨、肉の肉」と言います。この言葉は何を意味するのでしょうか?それは男と女の間に上下の関係はない。女は、男にとって同等の存在であり、両者は共に助け合っていく存在であることを表しています。
このようにファリサイ派の人々は、離婚について語る律法に着目、離婚は許されていると主張しイエス様を試みました。一方、イエス様は、創造物語の記述から、結婚の本質とは何かを示されました。
さて、エフェソの信徒への手紙には結婚について記されています。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と夫婦の関係が、キリストと教会の関係になぞられて記されています。教会がキリストに仕えるように、またキリストがご自分を与えて教会を愛されたように、夫婦も同じ様に愛し合うことの大切さが記されています。31節以下にこう記されています。「『それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』。この神秘は偉大です。わたしはキリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。」どうでしょうか?このような関係は人が自分の思いで作れるものではありません。まさに神秘ではないでしょうか?
ところで、人は様々な事情で、時に離婚をせざるを得ない人もいます。実際に、冒頭の数字にも示されている様に、離婚を経験する人は少なくありません。逆に、離婚を機に、再婚した相手と互いに深い信頼を与えられる人もいます。そこで、このような現実を知った時、他人が離婚したり再婚することに対し、私たちが罪であるとか正しいとか議論されることに、時に違和感を覚えます。
大切なこと、それは主のみ言葉を「掟」として聴かないことだと思います。私たちは、時にイエス様の教えに、当惑したものを感じてしまいます。それは、この時のファリサイ派の人々の聖書を受けとめる姿勢に現れています。イエス様を試そうと聖書を表面的に解釈し、主張する、福音を「掟」として聴く態度です。人生で直面する様々な問題に対し、聖書が許すのはどこまでと決めていく姿勢です。このような姿勢で聖書を読む時、表面上は聖書に従っているようでも、実は、福音の本質とは全く異なる結果を生んでしまう・・・私たちの現実には、そのようなある意味、行き違いが多々あるのではないしょうか?
では、行き違いは何故、起こってしまうのでしょうか?それは、私たち人の頑固の故です。私たちが常に立ち帰るべきこと、それは私たちのまさに頑固のためにイエス様が十字架に架かられた、イエス様自ら、頑固な人の罪を担うために、十字架に歩まれたという真実です。イエス様の教えは、いつも十字架と切り離して聴くことは出来ません。イエス様の十字架での赦しを受け入れることなく、単にみ言葉を聴く時、み言葉を時に隣人を裁くためのものとしてしまいかねません。逆に、イエス様によってのみ得られる赦しを心から受け入れ、イエス様の教えを聴く時、自らの罪の深さを知らされ、イエス様が頑固の自分のためにどれだけ大きな犠牲を払って下さったか思い知らされるのではないでしょうか。この時、イエス様の教えは、私たちが、自らの正しさを主張するのではなく、他者を裁くのでもなく、自らを神様の愛を示す歩みへと導くものとなるのではないでしょうか。そして、イエス様の、自らを与えることで示された愛を受け入れることから歩み出す時、結婚関係にある二人も、この愛の内に結び合わされ、一体とされていくのかもしれません・・・
最後、私たちもこの福音を聴く時、結婚という関係を新たに見つめ直します。そのことでますます互いを尊重し、助け合う関係が築けることを信じます。
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