2021年8月22日     聖霊降臨後第13主日(B年)

 

司祭 アントニオ 出口 崇

「わたしたちは信じ、また知っている」

 「受胎告知や、奇跡や、復活、三位一体と言うのを理解して信じることがとても難しい、強い信仰心がなければ信者にはなれないんでしょうなー」
 以前勤務していた教会のご近所におられた方は、仏教やキリスト教について感心を持っておられ、色々なお話をさせていただきました。
 私たちは、キリスト教のすべてを理解して信じているのでしょうか。神学館に行って、多少の知識は得ましたが、そのことによって自分の信仰が、強められたか、といわれると、そうでもありません。
 その方には、「知識、と言うよりも、自分にとってイエスキリストとは何なのか、しかワカリマセン」と答えました。
 すると、仏教の親鸞が言ったとされる言葉を弟子たちがまとめた『歎異抄(たんにしょう)』という本の話をしてくださいました。少し興味をもったので調べていると、このような一文と出会いました。

 「阿弥陀如来が五劫という長い時間をかけて、すべての存在を救おうという深い思いから建てられた誓願を、よくよくこの身に引き当ててみると、それはひとえにこの親鸞一人を救うためであったのだ。思えば、はかり知れない罪業をもったこの身であるのに、たすけようと思い立ってくださった本願の、なんともったいないことか」

 親鸞さんという浄土真宗を開いた偉いお坊さんでも、信心、信仰心の基本は「私自身にとって」と言うことだったのでしょう。

 イエス様の十字架は、よくよくこの身に引き当ててみると、ひとえに私の罪をあがなうためであった。私を救うためであった。

 「わたしたたちは信じ、また知っている」
 私たちの信仰の原点は、イエス様と自分自身との関わりです。
 私たちが感じたこと、知っていることは、イエス様のほんの一面、一部分だけ、すべてを「知る」ことはできません。
 しかし、復活のイエス様は、私たちのすべてを知っておられ、共にいてくださる。
 このことを、信じていけたらと思います。