2021年7月4日     聖霊降臨後第6主日(B年)

 

司祭 セシリア 大岡左代子

「イエスさまとともに」

 「故郷に錦を飾る」とか、唱歌“ふるさと”の歌詞に「志を果たしていつの日にか帰らん」という歌詞があるように、この世的な「出世」をしたり、ある種の社会的評価を得た場合には、故郷で賞賛される存在になるということは、わたしたちの社会にある一つの価値観です。また故郷は、ある人にとってはほっとする場所であり、自分が取り戻せる場所でもあります。故郷を持たない者は、故郷を持つ人を羨ましくも思います。一方で、故郷が、自分のルーツであるがゆえに捨て去りたい、忘れたいという場合もあるでしょう。イエスさまは、どのような思いをもって故郷に帰られたのか、いつもこの箇所を読んで思います。
 イエスさまは故郷に入っても、家族と家で団欒をしたり、懐かしく友人を訪ねるのではなく、いつものように安息日に会堂で教え始められました。イエスさまは故郷で賞賛されたり、歓迎されることは最初から期待していなかったように思います。ただ、自分の故郷にも病気の人、苦しんでいる人はいるから、他の場所と同様、そこで神の業を行おうと思っておられたのかもしれません。けれども、会堂で教えるイエスさまについて、人々は、歓迎するどころか、最初はその知恵や行為に驚いたものの、やがてそれはつまづきに変わります。
 イエスさまの衣にでも触れればいやしていただける、とやってきた女性や、自分の地位をも顧みず娘の救いを懇願した会堂長とは対照的です。故郷の人々は、イエスさまをその家族や出自からのみ判断し、本当にイエスさまが何者か、を知ろうとはしませんでした。故郷の人々が自分たちのもつ価値観やある種の「境界」から解放されずそこに留まっていることに、イエスさまはがっかりされたのではないかと思います。この故郷の人々の態度は、イエスさまに奇跡を起こさせないような状況を作り出したのです。イエスさまでさえ力を発揮できない、それは神様の介入を拒む態度と同様だったのではないかと思います。わたしたちはイエスさまが奇跡行為者だからキリスト教を信じるわけではありません。様々な行いや言葉を通してイエスさまが歩まれた道に少しでもつながりたい、その思いがわたしたちの信仰を支えているのです。わたしたちが心からイエスさまに信頼しその歩みにつながりたいと自分の中の境界をこえて歩む時、思いもかけない出来事が生じてくるはずです。その意味では奇跡は、神様と信仰をもつ者との共同作業であるといえるかもしれません。