司祭 クリストファー 奥村貴充
20代の頃、漁師の小型船舶で海に連れて行ってもらうと、ほんのちょっとした波が当たっても大きく揺り動かされ、翻弄されるような感じになりました。今日の福音書はちょっとした波どころか、突風で波をかぶって漕ぎ悩んでいる弟子たちの物語が書かれています。
本日の大切な箇所は36節「弟子たちはイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」です。イエスがともにおられる船出の始まり、そして新しい展開がイエスとともに始まっていくかなりドラマチックな場面です。しかも弟子たちが主体的に漕ぎ出して船出をしているところが大切です。
弟子たちだけではなく、そこにイエスが一緒におられ、守り・導きをちゃんと示して下さっているということ、苦難に遭遇した時でさえも、舟を導いて安全にして下さっていることが中心的なメッセージです。そういったことを今日の物語では突風が凪になっていくということで表わしています。突風は湖で頻繁に起こる気象現象であるとともに、弟子たちの活動を悩ませる様々な試練を象徴的に表わしています。
教会は舟のイメージが使われます。そして宣教は船旅に例えられます。この日本での宣教を考えた場合、以前から順風満帆だったというわけではありませんでした。それまでの船旅の中で絶えず突風や波に悩まされる連続だったと言えます。ただ、いろいろな逆風に遭っても、そこにイエスがともにおられる信仰があったからこそ、その時代の苦難を乗り越えて来られたのでした。
波が過ぎ去ると、次の波が打ち寄せて来るように時代は次々と変化していきます。こうした波の中で、どの教会も地域社会の中にあって、どうしていくのかが課題です。時代に合わせて新しい展開を始めていこうとする時、同時に困難も伴ってきます。今までの方法が通用しなくなってきているからです。
そういう中で時代の変化という波を越えていく、それが時には耐え難いような困難を伴うかもしれません。これまでの船旅を見た場合、波瀾万丈と浮き沈みの連続だった言えます。そこを乗り越えてきたのは、私たちだけの努力ではなく、イエスがともにおられ、必要なことは主が備え、守り導いて下さっているという信仰でした。だからこそ今まで教会という舟が荒波の中を進んでこられたのでした。
それぞれの教会、またわたしたち1人1人は歩みの中で荒波をかぶるような苦難に遭遇しても、それを一喝して静めて下さるイエスがともにいる、自分の信仰に磨きがかけられていくプロセスなのだということを確認し、聖霊の一致のもとに協力し合っていきたい次第です。
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