司祭 ヨハネ 古賀久幸
イエス様とともに生きている【ヨハネによる福音書14章16−21】
行き場を失った武士道の精神をキリスト教信仰に見出した明治の先達の信仰は真面目、律儀、忠実、高潔という特色があった。なかでも内村鑑三は聖書を砥石として自らの人格を神に向かって鋭く研ぎ続け、その真摯すぎる求道の姿勢はときとして凡庸な人間には近寄りがたい人に映った。その彼を変え、後の世の人にまで感化を及ぼす深い霊性の獲得まで導いた事件がある。妻かずと娘ルツの死だ。わずか2年で終わった結婚生活。内村は打ちひしがれ心身は硬直して動くことができなかった。そして、19歳、愛娘ルツの闘病の一部始終と臨終を看取ることになる。亡くなる3週間前、ルツは生涯最初で最後の聖餐式にあずかった。弱って細くなった手に聖杯をとり主の血を飲み終わると死に頻した顔に喜びの光が顕れ感謝、感謝と繰り返したという。内村は異様な驚きに心打たれ、「人命の貴きは健康の故ならず、聖霊のゆえなり、人の身体は聖霊の殿(みや)なり、聖霊は人の体に在(いま)してその霊魂を完成したまいつつあるなり。」と深く悟り、ルツの葬儀のとき今日はルツの結婚式であります、とまで語る。それ以後、死者は残された者のためにその身をもって天国の門を開けてくれたと、内村は生ける者と死せる者との救い主イエス・キリストを伝えた。
信仰の偉人としてではなく、一人の人間として悲しみを抱きつつ主イエスに深く慰められた内村鑑三の内奥を新しい視点から深く洞察した「内村鑑三 −悲しみの使徒−」若松英輔著。わたしはこの本を二人の息子を亡くされた方から紹介され、その方が歩まれた悲しみの人生と主イエスの慰めとを重ね合わせながら、感慨深く読み終えた。
耐え難い苦しみの道をとおるとき、潰されそうな弱いわたし達の魂に神は生命の息を吹き込んでくださる。それは真実だった。イエス様は別れが迫る弟子たちに向かって、真理の霊を贈ってくださることを約束された。その霊はイエス様が父なる神とともにおられ、死者をも含めわたしたちがイエス様の内に、イエス様がわたしたちの内にいることを悟らせてくださるのだ。「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」とイエス様は言われた。わたしたちは助け主、弁護者、慰めの主である聖霊の風に吹かれて、イエス様の命の中に招き入れられる。世間はそんな空絵言と言うかもしれない。しかし、信じる者にはその霊の働きが確かに存在するのである。
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