司祭 パウロ 北山和民
「御子はパンを裂くみ姿のうちにご自身を示されました」(復活節第三主日特祷)
わたしたちは聖餐式を行なうたび、…キリストの命に養われ、主の救いのみわざを宣べ伝えるのである(祈祷書159頁)
このコロナ禍の時世に「当たり前のことが何と有り難いことか考えるようになった」とよく聞くようになった。まさに私たちも「当たり前のように」出席したり、欠席したり、遅刻したりしてきた「いつもある聖餐式に集まること」が当たり前でなくなった。それは、あらためてその意味を深く考え、その恵みに応えて行いを改める機会なのかもしれません。
復活節の福音、特に本日のルカ福音書は、イエスさまが弟子たち(教会)の交わりのなかで、「なぜ取り乱しているのか、なぜ心に疑いを抱くのか。霊には肉も骨もないが、あなたがたが見ている通り、わたしにはあるのだ」と言い、「焼いた魚」を弟子たちの前でむしゃむしゃ食べたと記す。これら第24章は何を言おうとしているのでしょうか。
たとえば身近な愛する人を亡くした人への慰めは何であろうか。イエスを見捨てた弟子たちが立ち上がった(復活した)「赦し」の手応えとは何であろうか。それは「分かち合って共に食べる」交わり(コイノニア)に臨在するイエスさまであり、悲しむ人自身も「分かち合う者」になることだとルカ福音書は言いたいのではないか。つまり打ちひしがれた者の本当の慰め・復活とは、妄想や思い出に浸ることではなく、弟子たちのように、その現場にイエスの「臨在」を強く求めて(無理に引留めて24:28〜)、「心燃える者」「宣教する者」になることです。聖餐式に身体を運んで「愛する人(他者性)の臨在感とはこれだ!」と手のひらに実感し、また「私の命は贖われて在るのだ。死んではいけない」と「初めてのように」気づくのです。これらの新鮮な気づき(恵み)なしに、私たちの赦しや再生は起こらない。今私たちは「集う、出会いの新鮮さ」ことについて工夫が求められ、困難なチャレンジを受けています。しかし聖餐式を制定された主は、私たちに、今この国を覆う不安と閉塞感にもっと敏感なり、共感し分かち合う教会・コイノニアへと変わる勇気と希望をもちなさいと言われていると思います。
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