2021年3月21日     大斎節第5主日(B年)

 

司祭 マタイ 古本靖久

 今日はイエス様が語った、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という言葉について考えてみたいと思います。この言葉はイエス様がエルサレムに入城した直後、また十字架につけられる少し前に語られたものでした。ですからこの「一粒の麦」とは一体何なのか、想像することができます。
 「一粒の麦」、それはまぎれもなくイエス様です。イエス様はまもなく祭司長や律法学者から排斥され、弟子たちに裏切られ、そして人々に見捨てられて、十字架へと向かわれます。しかしそれはすべて神さまのご計画です。イエス様という一粒の麦は、そのまま一粒のままでいるのではなく、地におちなければならない。死なねばならない。それはなぜでしょうか。
 それは豊かな実りを得るためです。100倍もの、1000倍もの、いやそれ以上もの実を結ぶためです。その実とは、他でもないわたしたち一人ひとりです。神さまが心の底から愛しておられたにもかかわらず、自分勝手に生き、何度も背いてきたわたしたち一人ひとりです。そのわたしたちが神さまの元にかえり、神さまに結ばれる実となるために、イエス様は十字架へと進まれ、ご自分を地中に落とされた。それはわたしたちを生かすためなのです。
 イエス様は続けて、このような言葉を言われます。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。この言葉を聞いて、戸惑う人も多いでしょう。「隣人を自分のように愛しなさい」とは聞いたことがあるが、これはおかしいと。愛すると憎むという言葉は、正反対の言葉です。自分の命を憎みなさい。ともすればこの言葉は、自分のことをないがしろにしなさい、そんな風に聞こえてしまうかもしれません。しかしそうではないのです。
 自分の命を愛する。自分で手に入れ、自分の思い通りになり、自分のために使い、自分を満足させる。その自分の命を愛することは、神さまのみ心ではないのです。そうではなく、その自分の命に背を向け、イエス様が与えて下さる命、一粒の麦として地に落ち十字架に死ぬことでわたしたちに与えられるその命を受け入れるときに、わたしたちには永遠の命が与えられるのです。自分の愛に留まるのではなく、イエス様の愛を受け入れ、神さまとの交わりの中に生きていく。それは決して自分の力だけでできることではありません。イエス様が一粒の麦として十字架に死んでくださり、わたしたちを引き上げでくださったからこそ、わたしたちは生かされていくのです。
 そしてイエス様は、こう宣言されます。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」と。面白い表現だと思います。イエス様に従うことで、イエス様のいるところに「いることになる」。イエス様のいるところに行くことができるでもなく、イエス様が来てくださるわけでもない。「いることになる」というのです。「いる」。イエス様と共にいるのです。イエス様によって実を結ぶことが許されたわたしたちは、イエス様と共にいる。神さまの交わりの中にいる。永遠の命の中にいるのです。
 それが今日、イエス様がわたしたちに告げられた、喜びの約束なのです。エルサレムに来たギリシア人は、イエス様に会いたいと願った。イエス様がこのとき会ったのか、どうかはわかりません。でも弟子を通じてでも、この「一粒の麦」の話は、彼らの耳にも伝えられたでしょう。そのときには、意味は分からなかったかもしれない。しかし数日後、イエス様の十字架の姿を見て、彼らは理解したはずです。一粒の麦、それはイエス様ご自身なのだと。イエス様は地に落ち、死ぬことで、自分たちに命を与えて下さった。そして、イエス様のおられるところに、自分たちもいるのだという確信も持てたのではないでしょうか。
 ギリシア人たちは、エルサレムの神殿でイエス様に会えなかったけれども、イエス様と共にいた。わたしたちもそうです。今、わたしたちがイエス様を受け入れたときに、わたしたちの生きる場所はイエス様がおられる場所になります。イエス様がおられる場所。それは教会だけにとどまるはずはありません。礼拝堂の中だけでもありません。すべての場所で、すべてのときに、わたしたちはイエス様につながり、共に歩んでいることを心から感謝したいと思います。
 一粒の麦は、わたしたちが実を結ぶために地に落とされました。