2021年1月17日     顕現後第2主日(B年)

 

司祭 マーク シュタール

第一印象と神様の愛
【サムエル記上3:1〜10、コリントの信徒への手紙I6:11b〜20、ヨハネによる福音書1:43〜51】

 ナタナエルが「ナザレから、何か良い者が出るだろうか?」と言った時、彼は2つのことを意味していました。1つはイエス様の最初の評判はあまり良いものではなかったということです。皆、「ナザレ」というところが反乱者たちの温床だということを知っていました。今で言うなら、テロの温床ということです。だから、私たちの救い主がテロの町から来るとは考えられなかったのです。もう1つナタナエルが意味したことは、自分の方がナザレ出身者よりも優れているはずだということでした。イエス様はナタナエルを見て「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない!」と言っています。ナタナエルはイエス様の出身が悪いという「第一印象」にとらわれていましたが、イエス様はナタナエルに対して抱いていた「第一印象」を払拭し、ファリサイ派であったナタナエルを預言者にまつりあげました。(イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」ヨハネ1:50−51)
 パウロはコリントの信徒への手紙の中で、全てのことが許されているが全てのことが益をもたらすのではないので、何事にも支配されてはいけないと説いています。パウロは人々に「第一印象」を捨てることを勧めます。「体は淫らないおこないのためではなく、主のためにある」。言い換えれば、「第一印象(本能)」のままに動かないということです。自分の体が聖なる神殿だと思って扱いなさいと教えています。
 そして、今日の旧約聖書、サムエル記の中で、少年サムエルがいました。彼はユダヤ教の神殿監理者エリの見習いでしたが、ある日、夜中に神様の声を聞きました。偉大な預言者であったサムエルは地上の主人エリに対して受け答えしていた言葉を忘れ、神様に対して、「主よ、主よ、お話ください。僕はきいております!」と呼びかけるように教えられました。サムエルも「第一印象(思い込み)」を捨てなさいということを示しています。
 聖書は憐れみ深いメッセージを伝えています。私たちが神様に愛されている理由は一つ。神様が私たちを愛してくださっているから、それが唯一にして十分な理由なのです。私たちの独りよがりな「第一印象(つまり、自分が何か良い行いをしたから神様に愛されて当然という考えを持つ)」を捨て、このメッセージを受け入れる。これは素晴らしいことです。この思いを持って生きることを神様は望んでおられるのではないでしょうか。そして神様は何があっても愛して下さるというこの驚くべき、素晴らしいことを私たちは喜び祝うべきでしょう。イエス様がこの世に来たのは、神様のご計画です。神様の美しく完璧な贈り物です。とても、人間には、サムエルでも、エリでも、パウロでも、ナタナエルでも、思いつかない聖なる出来事です。