司祭 ヨシュア 大藪義之
愛されているからこそ、み心にかなうように生きる
新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい、緊張を強いられる毎日が続いていますが、新しく始まったこの一年も皆さまの上に、主のみ守りと祝福がありますように祈ります。
この日読まれるヨハネ福音書には、イエスさまのヨルダン川での洗礼のことが記されています。この洗礼を起点として、イエスさまの約3年にわたる「公生涯」が始まりました。
ヨルダン川はヘルモン山などが連なる山脈、高原に端を発して、途中はガリラヤ湖となり、死海へ注ぎ込む全長426kmにもなる北から南へと流れる川です。
イエスさまはガリラヤ湖の南西にある故郷のナザレから、この川へ出てきて洗礼者ヨハネが授けていた洗礼の列に並ばれました。マルコ福音書には書かれていませんが、きっとヨハネがイエスさまを見た時には大きな驚きがあったと思います。
川の中に進み、ヨハネから洗礼を受けられましたが、「そしてすぐ、水の中から上がっているとき、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのをご覧になった。すると、『あなたは私の愛する子、私の心に適う者』という声が天から聞こえた。」(聖書協会共同訳マルコによる福音書1:10〜11)と記されています。これはイエスさまご自身が見られたものであり、私たちにはどのような光景であったかは想像する以外に方法はありませんし、イエスさまがお聞きになった声も、厳かな重々しい声であったか、高らかな明るい声であったか、どのような声であったのかを知ることはできません。でも、分かるのはイエスさまが「私(神さま)の愛する子」であり、「私(神さま)の心に適う」人であったことです。
日本聖公会祈祷書の「入信の式」の「洗礼志願式」(祈祷書268頁)の冒頭はこのような言葉で始まります。
「あなたは、すでに教会に来て主イエス・キリストを敬っています。
これからは、そのキリストの教えを、自分の生涯の根本の問題として受け止め、
取り組んでいくことを望みますか」
これに志願者は「はい、望みます」と答えますが、「キリストの洗礼を受ける」ということは、自分の生涯の根本を問う営みの出発点、ということになります。これは洗礼を受ければ、その根本問題がすべて明らかになるとか、まったく別の人格に生まれ変わる、ということではなく、自分がなぜこの世に生まれ、どのように育てられ、年齢にかかわらずこれからいかに生きていくか、を問い続ける道に進む、ということになります。
ただ、この道は一人ぼっちで歩く道ではなく、イエスさまが歩まれた道を、イエスさまがあなたに伴って歩いてくださる道です。あなたが重荷を負って苦しんでいるときには、その重荷を共に背負い、あなたが喜びに満たされた時には共に喜んでくださる方、人生のパートナーとなってくださる瞬間、それが「洗礼」のときではないでしょうか。
しかし、私たち人間は残念ながら、「思いと、言葉と、行ない」で罪を犯し、神さまの御心に適わないことが多いのではないでしょうか。意識できる罪や他人に対して負わせてしまった「負い目」はまだいいのですが、さらに残念なことに私たちは「多くの記憶しない罪」まで犯してしまいます。
しかし洗礼を受けた者には「懺悔(ざんげ)」というすばらしいチャンスがあります。罪を悔やみ、告白することで「赦罪(しゃざい)=犯した罪が赦される」が与えられます。当然、与えた負い目の大小にかかわらず、それ相応のことを相手に対してはしなければなりませんが、それができてこそ「私の愛する子」とイエスさまにかけられた声が私たちにも聞こえてくるのではないでしょうか。
詩編1編にはこうあります。
「幸いな者 悪しき者の謀(はかりごと)に歩まず
罪びとの道に立たず 嘲(あざけ)る者の座に着かない人。
主の教えを喜びとし その教えを昼も夜も唱える人」 (同聖書 詩編1:1〜2)
洗礼の恵みを受けた者はもちろんのこと、神さまを今求めている人々も、日々積る罪や負い目のちりを、神さまによって赦され、ふり払いつつ、イエスさまの示す光へと前へ前へと進みゆきたいものです。
父と子と聖霊の聖名によって アーメン
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