司祭 サムエル 奥 晋一郎
「脇役であること」【ヨハネ3:23−30】
洗礼者ヨハネは、ガリラヤ湖から南にある、ヨルダン川中流のサリム近くのアイノンという場所で洗礼を授けていました。そんな中、ヨハネとあるユダヤ人との間で論争がおこります。ヨハネの弟子たちはヨハネに、ヨハネが「世の罪を除く神の子羊」と言ったイエスさまが洗礼を授けていること、そして人々がイエスさまの方に行っていることを伝えます。ヨハネの弟子たちにとって、自分の先生であるヨハネより、イエスさまの方が人々から評価をされている状況は決して、面白くなかったことでしょう。ひがみもあったでしょう。その状況に対して、ヨハネはヨハネの弟子たちに「人は天から与えられなければ、何も受けることができない」と答え、神様のみ心に従って生きていくことが大切であることを伝えます。さらに自らがメシア、イスラエルの民が長年待ち望んだ救い主ではないこと。また、ヨハネは自分自身が救い主であるイエスさまが活動する前にこの世に送られた存在であることを伝えます。そして、ヨハネはイスラエルの民を花嫁に、イエスさまを花婿に、自らを介添人にたとえます。そして、自らが介添人であるので、決して主役ではなく、花婿であるイエスさまの存在を喜んでいることを告げます。ヨハネは決して自らが主役ではなく、脇役であることを告げます。最後に「あの方は必ず栄え、わたしは衰える」と言いました。こうして、ヨハネのこの世での役割は終わり、イエスさまは弟子たちを連れて宣教の旅を行い、多くの人に神様のことをお話し、ことに困っている人々を助け、癒しを行われました。
今日は「あの方は必ず栄え、わたしは衰える」という言葉に注目します。あの方、すなわちイエスさまが栄え、わたし、ヨハネは衰えるということ。これは一見ひがみにも聞こえなくはありません。ひがみ、それは人間だれしも持っている感情です。この世のことで、どんな時も、どんなことでも自分自身の力のみで成し遂げることができると考えるのであれば、ひがみとなるかもしれません。しかし、ヨハネはイエスさまの存在は神様の栄光を表しているということ、自らが救い主ではないことを伝えており、決してひがんで言っているのではありません。このヨハネの考え、イエスさまの存在こそが神様の栄光を表していることを、イエスさまの弟子たちは後に、イエスさまの十字架と復活によって信じることができました。そして、そのことによってイエスさまの弟子たちはユダヤから、現在の地中海沿岸地域にイエスさまの教え、キリスト教を伝えることができました。彼らも決して主役ではありませんでした。自らを誇るのではなく、神様の栄光を現すために、イエスさまの栄光を現すために、お互いに助け合って、神様の救いを伝える活動、宣教活動を行ないました。
後の時代、日本にも、キリスト教が伝えられ、高山右近などのキリシタン大名も登場します。ところが、江戸幕府が成立した後、キリスト教は禁止され、日本は鎖国となってしまいました。そんな時代にも、潜伏しながら信仰を守った人たちもいました。さらに時は過ぎ1850年代になって、江戸幕府が鎖国をやめ、さらに、明治時代になり、キリスト教禁教令が解かれた後、多くの宣教師が外国人居留地を出て、宣教活動をして、教会を設立していきました。そういった歴史の中で、この各地に教会が設立されました。電車も車もない時代に、海外からの宣教師の方々の苦労は、今の時代に生きる私にとって、想像もできないほど、大変だったと思われます。しかし、そんな彼らも自らを誇ったりするのではなく、自らが主役ではありませんでした。あくまでも神様の栄光を現すために、イエスさまの栄光を現すために、神様の救いを伝える活動、宣教活動を、宣教師同士、お互いに助け合い行ったのだと思います。
もうすぐクリスマスを迎えます。クリスマスはイエスさまのご降誕をお祝いする日です。このクリスマス・シーズンにヨハネの言葉「あの方は必ず栄え、わたしは衰える」を心に留めて、わたしたちも自らが主役にして、自己中心的な生き方をするのではなく、神様の栄光に生かされていることに感謝する生き方、自らが脇役になる生き方をしていくことができればと思います。そうすることによって、私たちはお互いに、助け合い、支えあって生きていくことができ、さらに、神様の救いを伝える活動、宣教活動を行なっていくことができるのだと思います。
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