2020年12月6日     降臨節第2主日(B年)

 

司祭 プリスカ 中尾貢三子

「神の子イエス・キリストの福音の初め」

 日没が早くなるにつれて、イルミネーションの美しい光が街をきらびやかに照らしています。新型コロナウイルス感染症に振り回され続けた2020年もあと1か月を残すのみとなりました。

 先主日の11月29日から教会の暦はすでに新しい年が始まりました。今年の聖書日課はマルコによる福音書を読んでいくことになります。このマルコによる福音書には、クリスマスの季節にイエスさまの降誕劇で出てくる「マリアの天使へのみ告げ」や「馬小屋での生まれたイエスさま」「羊飼いの訪問」「三人の東方の博士たちの訪問」が描かれていません。この福音書の冒頭は「神の子イエス・キリストの福音の初め」で始まります。
 イエスさまの福音の初めという文言に続いて、預言者イザヤの言葉が引用されています。イエスさまがなぜ、どういうことのためにこの世界においでくださったのかが語られています。
 「主の道を整え/その道筋をまっすぐにせよ。」イエスさまは神様に向かう道を、どんな人にもわかるようにまっすぐに示すために来られたということなのです。
 このシンプルでまっすぐな言葉が示すことは、イエスさまの誕生のものがたりや、イエスさまがどんな系図(家系、先祖が誰で、どんな家に生まれたのか)いうことよりも、イエスさまが神の子であること、神様への道筋をまっすぐにするためにお生まれになったということ、ただそれだけだったのではないかということです。私たちは時として「わかりやすさ」を求めてしまいます。ただそのわかりやすさは、絵画的な美しさや物語としての面白さというよりも、さらにまっすぐに神様を指し示すことでした。
 それは、街のきらびやかなクリスマスイルミネーションのただ中には、イエスさまのご降誕のための場所を見出すことができないのと似ているかもしれません。
 イエスさまは、名もない大工と10代半ばの娘の間に宿られました。彼が生まれた夜、住民登録のために宿屋がいっぱいだったため、彼らはやむなく家畜小屋(馬小屋)に泊まらざるを得ない状況でした。もしこれが少しでも金銭的に恵まれた人たちであったなら、徒歩やロバでの旅よりももっと早く、移動することができたでしょうし、仮に宿が満員でも主人に「袖の下」をつかませて、一晩の宿を確保することなど、それほど難しくなかったかもしれません。それができなかったということは、この大工と娘の夫婦は、裕福ではない、むしろ貧しい部類に属するカップルだったといえるのではないでしょうか。そしてイエスさまの誕生を告げられたのもまた、貴族や権力者ではありませんでした。安息日の決まりを守ろうとすると羊の世話ができないため、律法を守ることができない羊飼いと、異邦人と同胞(イスラエル人)を区別しようとする律法の世界の外からやってきた三人の博士だったのです。
 イエスさまの誕生は、豪華な宮殿の一室で、王妃の元にお生まれになったわけではなかったのです。それは現代社会に置き換えると、住むところを追われた未婚のカップルが車中泊をしていた車の中で、出産を迎えた赤ん坊が神の子だったというほど、衝撃的なことだったのかもしれません。マルコによる福音書は出自や生い立ちを抜きにして、イエスさまの言葉と行いから始まるというのは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」が、イエスさまご自身の言葉と行い、それが旧約聖書での約束の成就に他ならないのだということをまっすぐに指し示していることに他ならないのではないかと思うのです。