2020年11月1日     諸聖徒日(A年)

 

司祭 アンデレ 松山健作

主の働きに希望をもって

 ルカによる福音書6章20節以下は、マタイによる福音書の山上での説教とは異なり、平らな場所で弟子の他に民衆の群れが、イエスさまのもとに集まっているところで語られています。ここでは幸いな人々(20−23節)と不幸な人々(24−27節)について語られています。
 イエスさまは、幸いな人々とは、「貧しく、今飢え、今泣き、憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられている人々」が幸いであると語ります。この状態を一見すると、なぜイエスさまは、そのような状態を「幸いである」とおっしゃるのか、理解ができません。「いやいや、どう見ても不幸ではないか」、と思えてしまいます。
 けれども、このイエスさまの語りは、すでに神の支配が始まっていることの宣言であり、そのような惨めな思いを神さまは放置してはおかれない方であるという宣言となっています。ですから、必ずそれらの人々には、神の国に入れられるときに「大きな報い」があるという約束になっています。
 一方、後半部分の不幸な人々とは、「富んでおり、今満腹し、今笑っている、すべての人にほめられる人々」であり、「不幸である」と語られます。これもまた一見すると、なぜ彼らが不幸であるのか、理解ができません。私たちも富むとき、満腹しているとき、笑っているとき、ほめられたときに「幸せ」を感じるかもしれません。けれども、イエスさまは、そのような状態は「不幸である」とおっしゃいます。「何を不幸である」とおしゃっているのでしょう。
 イエスさまが語られる対象である民衆は、おそらく貧しいものから富めるものまでを含んでいました。あるいは民衆は、イエスさまの言葉を受ける準備ができていたといえども、その中には、神の支配を信頼することができず、富に憧れる快適な生活を捨てきれない、「あなたがた」が含まれていただろうと思われます。
 イエスさまは、幸いな人々と不幸な人々を対比させながら、今の状況に心を奪われているわたしたちに呼びかけ、神の支配が始まっていることに目を向けるべきであると語られています。けれども、今の幸福にしか目を向けられない人々には、真の幸いと喜びは与えられないのです。なぜなら、それは神さまこそが真の幸いと喜びをもたらす方であるからです。けれども、わたしたちの生活は、往往にして「今」に集中しすぎ、すべてを司られる神さまから心を閉ざし、離れてしまう生活をしているかもしれません。
 そのような生活に対して、イエスさまは「不幸である」とおっしゃいます。そして、イエスさまは、神さまご自身が貧しさや苦しみの中で働く中に神の支配があることを見なければ、「幸い」ではないとおっしゃいます。
 わたしたちが生きるこの世の中は、非常な困難と苦しみ、悲しみの中にあるかもしれません。さまざまな災害、感染症の恐れと不安、貧困や人権の脅かしなどなど希望を失いかけている社会となっています。けれどもイエスさまは、そのような中におられ、神の支配を完成されるために働いておられます。その方のお働きにわたしたちが目を向けて、希望を持ち、幸福に生きることができるよう祝福されるように共にお祈りしたいと思います。