司祭 サムエル 門脇光禅
「神さまの大きな愛」【マタイ21:33〜43】
聖書の情景では神殿でイエスさまが祭司や長老に権威について説教しています。何故そのようなことができるのでしょう。その権威は何によるのでしょうか。
それは洗礼者ヨハネのお話をしてヨハネの権威がどこから来るのかイエスさまが逆に尋ね返しています。そして洗礼者ヨハネが強調していた悔い改めをしていないのは、祭司長や長老であると語ったのでした。
つまりこのたとえ話は、権力・権威の問題についてのお話というわけなのです。
土地を貸してもらった農夫たちがいました。土地を借りているのだから、自分たちの収穫のある部分を、貸主である主人に渡すのは、当然だったでしょう。しかし農夫たちにとって、取り上げられる分が多ければ、それはやはり困ります。収穫を自分のものにしたいと言う欲が働きます。自分たちの取り分を当然のように持って行ってしまうご主人の権威や力に対し、ある種の憤りや恨みを抱くようになります。当然のことをされているのですが、当然のことと思えないのです。地主と小作人の関係の世界ですから、現代の民主国家では余り考えられない光景ですが当時は当たり前の封建国家体制です。まして当時の現状は大国に占領され隷属させられている体制です。常日頃から苦労しているのは自分達で地主は労苦なしで不当に搾取していると思うと我慢ができません。主人や王様の権威を否定し、王から送られた僕を殺害し、ぶどうの収穫をすべて自分達のものにしようとします。
そのことが何度か続きます。それでも主人は、「僕を送っても分からないのかな。それなら実の息子である王子を送ろう。いくらなんでも実の息子王子なら、王の権威を認めるだろうから」と考えたのです。しかし残念ながら農夫の考えはその逆でした。「実の息子を殺せば、相続財産はすべて自分たちのものになるはず」と浅はかな考えを持ったのです。
息子を殺し、ご主人である王の権威を完全に否定しました。その結果は、当然、農夫たちに振り返って来ます。人間の強欲、力への渇望がこのような恐ろしい殺害にいたるのです。とても恐ろしい譬え話です。
この譬えを聞いた祭司長や長老は「こんな農夫をひどい目に合わすのは当たり前」と答えます。そう答えたときは気づきませんでしたがやがて分かります。この譬えでひどい目に合わされた悪人である農夫こそ自分たち宗教権威者であることだったのです。
そして主人とは神さまのことでした。送られた僕とは預言者たちのことです。さらに主人の息子とはイエスさまのことだったのです。
神さまは人間に預言者を何度も送ったにも拘らず悔い改めなかったのです。ついに独り子イエスさまを神さまは送ったのですが、ユダヤの権力者そして民は、その神さまの独り子を殺してしまったわけです。
かくしてユダヤに現れた救い主を信じるのは異邦人ばかりとなりました。肝心のユダヤ人でキリストを信じる人はほとんどいない結果となりました。
しかしこれは別に2000年前のユダヤ人のことだけを言っていると言うわけでも無いと思います。人間は所詮自分の力や社会的地位と言うものをより上位に保とうとする弱い存在だと思います。
人間における絶対的な権威者は神さましか存在しないはずです。たとえ家族や肉親であっても神さまからこの世の生活の助けとなるためや愛の学びの助けになるために、一時的に神さまから委ねられた尊い預かりものと言えるのではないでしょうか。
決して家族は自分のものではないし、当たり前に自分に都合の良い存在でも無いと思うのです。神さまから託されたものを、本当に尊重し、大切にすることが必要です。
何故ならこの世はキリスト教にとっては、あまりに「現実的な世界」なのですが、神さまから借りていると言う意味では「仮の世界」だからです。恐ろしいたとえ話なのですが神さまの大きな愛を知るお話と言えるのではないでしょうか。
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