司祭 ヤコブ 岩田光正
「ご自分に傾聴することこそ主のみ旨」
「聞け、イスラエルよ。」旧約には、この言葉が度々出てきます。
神様は預言者を繰り返し派遣しては、罪を悔い改めて自分に聞き従うようとしましたが、結局、旧約の民は主なる神様に「傾聴」できませんでした。預言者たちの声に耳は傾けてもいざ自分の立場に都合が悪く耳障りだと、彼らの言葉を無視し、迫害しました。そして、神様の戒めに背くあらゆる罪(殺人、姦通、偶像崇拝、偽証、貪慾)を繰り返していました。
しかし、神様はこのように「傾聴」できず、罪を重ねている民を見捨てることなく忍耐します、そして苦悩の中で嘆きの声を上げる彼らを憐れまれ、ついに神様は救い主を彼らの目に見える、しかも同じ人の姿で地上に降ることを決意されます。御子の派遣、イエス様の誕生です。そして、救い主が来られたことを告げ知らせる道備えに預言者ヨハネを送りました。
神様が罪の縄目で苦しむ民を救う為に派遣した預言者ヨハネの声に果たしてイスラエルは「傾聴」したでしょうか?ヨハネは、救い主が来る前に多くの人々を悔改めさせてはヨルダン川で洗礼を行いました。しかし、最後、当時の指導者たちはヨハネの厳しく説く義の道を「傾聴」できませんでした。当時、ユダヤの宗教界は、祭司長や律法学者、ファリサイ派などが指導的立場にありました。彼らは、神様が人が幸福に生きるために授けた律法の専門家だと自称していましたが、現実は、この律法を自分達の都合の良いように解釈して、反対に人々に重荷を課していました。自分達こそ神様の教えを良く守り、義の道を行っているという自負していたのです。
ですから、そのような彼らは洗礼者ヨハネの声に聞き従えませんでした。そして、最後、彼を捕え、牢獄に入れてしまいます。イエス様が神の国について宣教の活動を本格的に始められたのはこの後です
ところで、聖書の歴史は、ある意味、わたしたち人類の歴史は主なる神様との対話の歴史と呼べると思います。そこで、人類の歴史は常に「傾聴」というテーマに貫かれているのではないでしょうか? 人に「傾聴」を求める神様と、なかなか「傾聴」の出来ない人間・・・今週の福音はこのことを明確に物語っています。たとえのある人とは神様のことです。その人には二人の息子がいました。兄と弟が父親に取った態度は全く正反対です。兄はとても礼儀正しく丁重に、ぶどう園に行くことを承知しましたが、行きませんでした。一方、弟の方は、初めはとても失礼な態度で断りながらも、後から後悔して、ぶどう園に行きます。この二人を分けた決定的な違い、それは「傾聴」でした。これが二人のその後の行動を分けることになります。
イエス様のたとえは、イエス様を陥れようとしていた先程の律法学者など宗教指導者たちに語った言葉です。このたとえでイエス様はヨハネが義の道を示したのに信じなかった、神様の声を「傾聴」できていないにも関わらず、自分達こそ正しいのだと人を裁いている、彼らを厳しく非難しています。
では、イエス様いわく神様の声を「傾聴」できたのが誰だったでしょうか。それは当時の徴税人や娼婦たちでした。彼らは当時、神様の言葉から遠い存在、罪深い人として人々から嫌われていた人々です。しかし、そのような彼らがヨハネの言葉を信じ、救い主を求めました、彼等こそ誰よりも傾聴できたのです。そして、多くの者がイエス様に救われ、従いました。
さて、私たちの時代も同じではないでしょうか?神様の声に「傾聴」できているでしょうか?実は、そのような思い込みが、反対に神様の声に謙虚に心を開き、「傾聴」することを妨げてはいないでしょうか?私自身、時にそういう自分にしばしば反省させられます。逆に、全く聖書の知識も教会に通った経験もない人で、いま置かれた状況の中、藁をもすがる思いで教会に救いを求めに来られ、以後、熱心な求道者になっていかれた方を知っています・・・そして、そんな方の姿を通して、自分も神様に救いと平安を与えられた当時の初心に帰ることができたものです。この方は、ある意味、本当に「傾聴」できているんだと思います。
最後、このように神様は今も私たちに「傾聴」することを求めておられます。私たちは思うことでしょう。イエス様の姿も見えない、声も聞こえないのに傾聴するなんてとても難しいのではないか。でも、これだけは忘れてはなりません。私たちはすでに神様の救いの計画の中にあること、そしてイエス様は最後の晩餐で言われていますように、私が来る時まで、この祭りを行うよう・・・そして、三位一体の神様は聖霊として私たちが傾聴できるように絶えず導いてくださっていることです。だから心を開けない、またいっぱい物を溜めこんでいるのが私たちの常ではありますが、信仰の初心に立ち返り、神様の言葉にいま以上に「傾聴」できるよう、共に祈りを深めて参りたいものです。
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