2020年9月13日     聖霊降臨後第15主日(A年)

 

司祭 セオドラ 池本則子

神様から無限に赦されている私たち

 ペトロがイエス様に聞きました。『兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。7回までですか』。イエス様は答えました。『7回どころか7の70倍までも赦しなさい』。「罪の赦し」。イエス様は私たちに無限の赦しを求められています。なぜなら、私たちの罪を神様が無限に赦してくださっているからです。

 イエス様は、王から1万タラントンの借金をしていた家来が返済することができず、憐れに思った主君に赦してもらってすべてを帳消しにしてもらったのに、自分に百デナリオンの借金をしている仲間を赦すことなく返済するまで牢に入れた、というたとえ話をされて、神様の赦しと人間の赦しの違いを明らかにされています。1万タラントンは百デナリオンの60万倍もの金額です。1万タラントンもの大きな借金を赦すことができたのはもちろん神様だからであり、人間は百デナリオンでさえ赦すことができないのです。

 これは私の経験談です。昔、どうしても赦せない人がいました。心の中でいつも悪口しか出てきません。その人のことを考えるとやるせなくなります。しかし、主日に教会に行って礼拝前にひざまずき、「〇〇さんを赦すことができますように。そして、愛する心を与えてください」と祈ると、気持ちがとても楽になりました。その人を少し赦すことができ、愛せるような気持ちになったのです。しかし、翌日からはまた同じでした。そして、次の日曜日に教会に行って、また「〇〇さんを赦すことができますように。そして、愛する心を与えてください」と祈りました。すると、また楽になるのです。赦すことができ、愛せるような気持ちになったのです。この繰り返しでした。あえて祈るのではなく、自然にこの祈りが出てきたのです。礼拝堂でひざまずく神秘さを体験したように思います。

 自分の思いだけで、自分の力だけで赦すことは難しいことです。もちろんささいなことなら自分の思いだけで、自分の力だけで赦せるでしょう。ペトロが聞いた7回という7という数字は単なる6と8の間の数ではなく、完全数を意味しています。ということは、人間にとって赦すことがかなり難しい罪についてペトロは尋ねたのだと思います。

 イエス様は、私たちには赦すことは無理であろうと思われる完全数の7回から、さらにその70倍までも赦しなさい、と言われます。その前提には、たとえで語られているように、神様が私たちの罪を7の70倍も赦してくださっている、ということがありました。神様から赦されているから私たちも人を赦すことができるのです。そして、自分が人を赦せるということは、反対に自分が人に対して犯してしまった罪もその人から赦してもらえる、ということになるのではないでしょうか。

 私たちは法律以外の罪を意識することなくいろいろと犯してしまうと思います。それほど私たちは罪深い人間です。しかし、神様はそんな私たちの罪を無限に赦してくださっているのです。そのことを感謝することができれば、私たちもまた、7の70倍まではいかなくても神様の助けによって赦す心が与えられるのではないでしょうか。