司祭 マタイ 古本靖久
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。(マタイによる福音書18:20)
祈祷書の160頁にこのようなことが書かれています。
「受聖餐者のうち、明らかに大罪を犯すか、言行で隣り人を害して主の民の交わりを損なった者があれば、司祭はその人に対して、その罪を悔い改め、加えた害を償い、または後に償う決心を明らかにしないときは、陪餐してはならないことを告げなければならない。また、互いに恨みを抱く者があれば、前の規則により、陪餐させてはならない。ただし、一方がその受けた害を赦し、与えた害の償いを明言し、和を求めているのに、他方が、それを受け入れずに恨みを解かないときは、司祭は和を求めている者に陪餐を許し、受け入れないものには許さない。これらの処置をしたとき、司祭は2週間以内に主教に報告する。」
教会の中に、罪はあるでしょうか。このように問われると、わたしはドキッとしてしまいます。罪ということについて、わたしたちはどう考えていけばよいのでしょうか。
たとえば澄んだ水が入った器があったとします。その水をきれいなまま保ちたいならば、どうしたらよいでしょう。答えは簡単です。濁った水や汚れた水をそこに混ぜないことです。そうすれば、水はいつまでも透明なままです。だとするならば、教会もこうあるべきなのでしょうか。「罪ある者はこの場から立ち去れ!」と。
教会は信仰者だけの集まりだから、教会に来て良いのは立派な人だけ。対面だけを繕って、よそ行きの笑顔で会話し、にこやかに毎日を過ごす。しかし常に他人の目を意識してピリピリし、陰では「あの人はこうだった」、「あの人はあんなことしていた」と繰り返す。そのようなことになれば、教会はとても窮屈な共同体になってしまいます。
それ以前に、わたしたち自身はどうなのかということも考えないといけません、わたしたちはきれいな水なのだろうか。濁っていて、この場にはふさわしくない者なのではないだろうか。先ほど、祈祷書の文言を引用しました。とても厳しい言葉です。正面から読むことがなかなかできないものです。「これは昔の考え方だ」、「教会は罪を裁くところではないから」、「そういうことをするのは教会的ではない」。いろいろな理由を挙げて、祈祷書の言葉からも、今日のイエス様の言葉からも、そして「罪」というものからも目を背けていく。それで果たしてよいのでしょうか。
そのような思いで今日の聖書に目を向けたときに、わたしたちはこのことに気づかされます。それはイエス様は、「罪」に対してきちんと向き合うようにと言っていますが、「罪を裁け」とは決して言っていないということです。兄弟が「罪」を犯したときには、行って二人だけのところで忠告するようにと言われているのです。そもそも聖書の罪という言葉ですが、わたしたちが思う「犯罪」とは少し違います。「罪」とは神さまの方を向かず、的外れな方向を向いてしまっていることを言います。
ですから「忠告」とは、「罪」を犯してしまった人の向きを改めさせ、どの方向に歩むべきかを示すことです。そしてこれが、教会の使命でもあるのです。
この箇所の直前、イエス様は100匹の羊のうち、たった1匹が迷い出たとしても、99匹を山に残してその1匹を捜しにいく、それが神さまなのだと説きました。そしてマタイ18章14節でこのように言われます。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」
つまり兄弟の罪を見つけたときに急いで忠告するのは、その人を否定するためでも排除するためでもないのです。神さまがその兄弟を大切に思っているからなのです。
先ほど、わたしたち自身もきれいな水なのかという問いかけをしました。わたしたちもかつて、罪の中にいました。神さまに背き、自分の思いを優先させ、生きてきました。神さまの前に立つことなどできない、そんな一人ひとりだったはずです。
しかし神さまは、そのような小さく、そして濁った水のようなわたしたちに目を留められ、手を差し伸べてくださったのです。そして濁ったままのわたしたちを、そのまま受け入れてくださった。だからわたしたちも、神さまのみ心に従い、神さまにそっぽを向いてしまっている人に対して、「向きを変えようよ」、「神さまの恵みの中においで」と招かなければならないのではないでしょうか。
神さまは「赦す神」です。わたしたちを赦されるお方です。赦されているからこそ、わたしたちも互いにゆるし合うことができます。お互いにゆるし合い、共にいのちにあずかり、生かされる。そこにイエス様が共にいてくださってくださいます。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」、イエス様の名によって集まるところ、お互いを受け入れていくところ、神さまの赦しを求め、その恵みにあずかるところ、それが教会です。
そのことを大切にしながら、歩んでまいりましょう。
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