司祭 エレナ 古本みさ
『自分を捨て、自分の十字架を背負って』
【マタイによる福音書16章21−27節】
わたしはほぼ毎日、クロスのペンダントをつけている。なぜか。数あるアクセサリーの中で、やはり十字架の形がいちばんファッション的に美しいと思うし、それはどんなときもイエス様が共にいてくださることを思い起こさせてくれる、言わば「お守り」のような存在であり、自分がクリスチャンというイエスの弟子であることを常に自覚し、それを他者へも示すためである。
なのに、実は十字架というのはもともと恐ろしい処刑道具であったということはなかなか思い起こさない。たぶん、無意識のうちに、わたしもこの福音書の中のペトロとなって、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません!」と叫び、十字架の本来の意味をかき消してしまっているのだろう。
しかし、主イエスはわたしにご自身の十字架を直視するように言われる。それは神の子として生きる道、失うことによってもたらされる本当のいのち、神の栄光をあらわすためのたった一つのうつわなのだ。そして言われる、「あなたも自分の十字架を背負ってわたしに従え」と。
わたしの十字架はなんだろう。知っている。わかっている。なのに、自分を捨てきれない自分がいる。このどうしようもなく情けないわたしを、神は赦してくださっているのだ。ごめんなさい、神さま。でも、わたしはあなたについて行きたい。行かせてください。本当のいのちを得させてください。わたしに与えられた十字架をあなたが一緒に背負ってくださっていることを信じ、一歩ずつ前へ歩ませてください。ただ、あなたに栄光を帰すために。
今日の胸元に揺れるペンダントはいつもより、心なしか重い。でも、そこから放たれる目に見えぬ輝きがわたしの足をほんの少し軽くしてくれている気がした。
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