執事 ルカ 柳原健之
王上3:5〜12
ロマ8:26〜34
マタ13:31〜33、44〜49a
イエスは天の国がどういうものかということについてたくさんの例を挙げておられます。からし種、パン種、畑に隠された宝、良い真珠、網にかかった魚、どれも当時の人々にとっては身近な例えでありました。なぜ、イエスはこれほど多くの例えを用いて説明されたのでしょうか。きっとイエスにとって天の国とはそれほど難解なところではなかったのではないでしょうか。むしろ当時の民衆たちもイメージしやすいそんなところを思っておられたのではないでしょうか。
さて、聖書の中でからし種というものが出てきます。ご存知でしょうか。いわゆるマスタードの種です。この種はとても小さく、待ち針の先端ほどの大きさです。本当に種なのかと思うくらい小さいのですが、これが育つと高さが4mになることもあるそうです。そして大きな枝を結び、鳥たちが来て巣を作るほどになるとも言われています。小さな種でもそれだけ大きくなる力が宿っているのです。もしこの種を畑に播いたとしても見えないでしょうし、種を蒔いたと言っても信じてもらえないかもしれません。しかし、確実に種は蒔かれ、成長していくのです。
イエスは天の国とはこのからし種に似ていると言われています。目にはっきりと見えないかもしれなせんが、もう既に天の国の種は蒔かれているのです。天の国はもう既に始まっていることは私たちにとってとても希望ある言葉です。そして天の国はからし種と同じように大きくなることが約束されています。多くの人が天の国に入り、その中で鳥が巣を作って休むことが出来るように、安心していられる場所が与えられるのです。
しかし、種が小さいからこそ、その発芽には目を見張っていなければ、どこで芽を出すか分かりません。私たちは常に天の国が来ることについて意識しておかねばならないのです。イエスが弟子たちに教えられた「主の祈り」の中にも、「御国が来ますよう」との一文が入っています。キリスト者が幾たびと唱える祈りの中で、そこに意識を向けるようにされています。
天の国を育てるのはイエスだけではありません。このたとえ話が弟子たちに話されたように、私たちキリスト者全員がその育成に関わることが求められているのです。私たちの働きがどんなに小さなものであったとしても、からし種のようにそれは大きくなる可能性を秘めています。どんな小さなことでも天の国のために行っていきたいと思います。そして大きくなったその御国の中で神の御手に抱かれて、憩いたいと思います。
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