2020年6月21日     聖霊降臨後第3主日(A年)

 

司祭 セシリア 大岡左代子

「イエスの仲間であると言い表す」

 「収穫は多いが働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」と弟子たちに言われたイエスの目に映ったのはどんな世の中だったのか、と想像します。イエスの目には、飼い主から見放されたように弱り果て、生きる希望を失ったかのような人々が確かに見えた、イエスはその人々に深い憐れみを感じずにはいられなかった。イエスにとっての「収穫」とは、きっとこの人々を神様のもとに集めること。そのために弟子たちにあらゆる病気や患いをいやす権能をお授けになったのです。今日与えられた福音書は、その権能を授かった弟子たちの派遣に際してのイエスの指示です。迫害を予告しつつも、恐れることなく、勇気をもって自分がイエスの仲間であることを告白するように、と言われます。
 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」(マタイ10:32−33)
 「わたしの仲間であると言い表す」とは、ただ単に「イエスのことを知っている」とか「一緒に旅をしてきました」とか、「お友達です」という程度のものではなく、イエスの歩みに倣って生きることを宣言する、わたしはイエスに属する者だと公言する、という意味をもちます。本田哲郎神父は、「わたしの仲間」を「わたしの側に立つこと」と訳されています。それは、自分の立ち位置を明確にすることです。さらに言えば、イエスの側に立つこととは、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている人々」を視座に入れ、眼差しを向けることができることを言うのではないかと思います。それは、イエスの時代の伝統的なユダヤ教の価値観においては少数派、マイノリティーな生き方であったでしょう。だからこそ、あえてイエスは「公言する」ことの大切さを語られたのでした。
 わたしたちは、この数か月間、新型コロナウィルス感染症拡大への不安や恐れの中で、経験したことのない時を過ごしています。「大切な人の命を守る行動」としていろいろな制限をせざるを得ない状況の中、人々の分断や、さらなる「いのち」の軽視が起き、「人の心」が置き去りにされているのではないか、との思いが湧き上がってきます。また、自粛生活が続く中、自らの信仰について、教会について、人との関わりについてなど様々に考える時が与えられたのではないでしょうか。わたしたち自身がイエスの憐れみによって見いだされた一人ひとりであることを思い起こすとともに、今一度、イエスが「誰に目を留め、憐れみをかけられたのか」、「イエスの側に立つ」ということ、について思い巡らしたいと思います。