2020年6月14日     聖霊降臨後第2主日(A年)

 

司祭 クレメント 大岡 創

「弟子たちの派遣」【マタイ9:35−10:8】

 イエスが弟子たちを遣わそうとされたのは「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」からでした。深く憐れむとは「はらわた」という言葉に由来します。群衆を見て「はらわたが千切れる思いにかられた」というのです。群衆というのは、決して病を患っている人たちばかりではなかったでしょう。表面的に見れば何の変哲もなく日々を過ごしている人たちが噂を聞きつけて集まって来ていたのでしょう。でもイエスには、そのような人々が「飼い主のいない羊」のように見え、「弱り果て、打ちひしがれている」姿に見えたというのです。この箇所が聖職按手式において読まれる理由がこんなところにもあるように思われます。
 今日の福音書を見ますと、イエスの宣教がどのようなものであったかが描かれています。巡り歩いて福音を伝え、人々を癒す日々を過ごしておられたのでした。また、宣教とは言葉だけによるものではなく、実際に神さまの支配をもたらすもの、力を伴うものであることを、明らかにするために奇跡を行われ、弟子たちにもおこなうように命じられました。病を癒し、様々な困難に立ち向かっていける力を授けられて、弟子たちはイエスの働きを受け継ぐことになったのです。「ただで受けたもの」とはこのような力を指しているのだと思います。人を癒すようなことがあっても、見返りを期待することなく、その業をおこなうことが指し示されたのです。何故なら、そのような力を授かったのは、弟子たちに相応しい資格や能力があったのでもありません。そうではなく、イエスから神さまの働きを支えるために遣わされるために、その力を受けたのです。
 何処までも我が子を求めてやまない神さまの愛と慈しみが、人間を捉え、揺さぶり、動かす力となっていく。私たちに出来ることは、その憐みに仕えることです。弟子たちを遣わし、弟子たちを通して働かれたイエスは、今も教会を通して働いておられます。そのイエスに仕えることが私たちの務めです。それが「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と言われたイエスのみ心に生きる道ではないでしょうか。