司祭 テモテ 宮嶋 眞
「自粛」、「非常事態」とは?【ヨハネによる福音書第14章1〜14節】
「自粛」=自分から進んで言動を慎むこと。のはずが、他者から強く要請される「自粛」とは一体何なのか? クリスチャンが、クリスマス前の4週間、イースター前の40日間の紫色の期間に行う節制とはどう違うのか。これも、筆者が子ども時代には、親に強制されてしていたような気もするのだが。ストレスがたまる自粛とは一体何なのか?
「自粛」をその本来の意味の通り自ら進んで行うためには、医学的な知見、感染の広がりに関するデータ、さらに自宅待機行動を行わなかったときに予想されるリスクについての情報、今の一人一人の行動が以後の社会、世界に与える影響などをできる限りたくさん、わかりやすく提供することが必要なのではないだろうか。
「非常事態」=突発的に発生した平時とは異なる状況、緊急の事態と辞典にはあるが、突発的と感じるのは情報を与えられていないものがそう感じるだけで、今回の事態については、政治権力を握る者は早くから情報は持っていたのである。その情報の評価を誤ったことをごまかすために「突発的」という表現を使っているに過ぎない。
東日本大震災においても、リスクについての情報は与えられていたが、それをリスクとしてきちんと捉えていたか否かが分かれ目になった。有名な「釜石の奇跡」(岩手県釜石市の3000人近い小中学生のほぼ全員が避難し、奇跡的に無事だったこと。これを奇跡というのは、普段から積み上げられた努力に対して失礼だとは思うが)と、「原子力発電所の破壊」とを比較すれば、後者が平常時に、どのように非常事態をイメージして生きてきたかが問われるのは明らかである。
イエス・キリストの十字架の死という出来事を、彼の弟子たちはどう捉えたのだろうか?
少なくとも、イエスによって、警告は三度なされていた。今日の福音書でも「心を騒がせるな」という表現がある。しかし、弟子たちには、そのリスクに対する備えができていなかったのは明らかなようだ。クリスチャンにとって、救い主があるということは何にもまさる安心情報である。そのことを土台として、平時にどのような備えを積み上げるかが、問われる。
自粛とは、非常事態にするものではなく、非常事態に備えてするものなのだろう。
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