2020年5月3日     復活節第4主日(A年)

 

司祭 バルトロマイ 三浦恒久

「あなたがたに平和があるように」【ヨハネによる福音書20:19】

 イエスは自分のとき、すなわち自分の死が近づいたことを知ったとき、弟子たちと共に食事を取り、別れの説教をされました。この説教の後半でイエスは次のように言っています。
 「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(ヨハネ16:32)
 その後、この言葉通りイエスは弟子たちに裏切られ、十字架刑に処せられました。

 イエスが十字架上で息を引き取られてから三日目の夕方、弟子たちはユダヤ教からの迫害を恐れ、ある家に集り、身を潜めていました。そこへ復活されたイエスが現われ、彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われました。弟子たちはイエスを見て喜んだと言われていますが、本当にそうだったのでしょうか。イエスを裏切ったという心の傷は、弟子たちから消え去ることはなかったでしょう。心の奥に澱(おり)のように沈殿し、何らかの拍子に浮いて来てはまた沈む、といったことが繰り返されたに違いありません。そのような中で「あなたがたに平和があるように」と言われたイエスの言葉は、弟子たちにとっては大きな意味があったと思います。
 自分の命を守るために大切な人を裏切るという人間の自己中心性。弟子たちはその自己中心性にさいなまれていたのだと思います。そのような弟子たちに取って、「あなたがたに平和があるように」というイエスの言葉は慰めであり、励ましであり、希望であったに違いありません。

 別れの説教の結びの言葉を思い出してください。イエスはこう語っています。
 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)
 人間は自己中心性という死に至る病を抱えています。この病と向き合いながら、イエスの言葉に慰められ、励まされ、希望をもって生きていくことが出来るのだと思います。

 「考える絵本5 悪」(作・石坂啓 大月書店)という絵本があります。ねこのタマオが、ある日お面をひろってかぶってみました。すると、いつもと違う気分になりました。意地悪したくなったり、ケンカしたくなったり、ズルしたくなったり・・・。
 「すごいや、わるねこのお面。どんどんやばいことが想像できちゃう」と思っていると、「あれ?お面がとれない!!」とびっくり。さあ、どうなるのでしょうか?

 この絵本を読み終えて、ふっと思い出したのが、節分の豆まきでした。奈良県吉野山に金峯山寺(きんぷせんじ)蔵王堂というお寺があります。このお寺では一風変った豆まきが行われています。「鬼は外、福は内」との掛け声で、全国各地から追われた鬼たちが、この寺の「福は内、鬼も内」との掛け声に誘われて集るというのです。ここには鬼も福も同居させてしまうおおらかさがあります。絵本にもこのおおらかさが描かれていました。
 そして、このおおらかさはイエスにも見られるものだと、わたしは思います。イエスは弟子たちの裏切りを咎めることなく、「あなたがたに平和があるように」と言われました。これはイエスのおおらかさの現われです。

 百パーセントいい人も百パーセントわるい人もいません。自分の中にあるいいものも悪いものも認めつつ、ああでもないこうでもないと悩みつつ、折り合いをつけて生きていくことが大切なことだと思います。
 よいものもそうでないものもおおらかな心で包み込んでいく、それがイエスのあり方だったのではないでしょうか。イエスのこのおおらかさが弟子たちの慰めであり、励ましであり、希望だったのだと思います。