2020年4月12日     復活日(A年)

 

司祭 ヨハネ 黒田 裕

泣いていたマリアとわたしたち
【ヨハネ20:1−10、使徒10:34−43、コロサイ3:1−4】

イースターがわたしたちの救いとなる前提としてどのような人間状況があるでしょうか。それが(マグダラの)「マリアは墓の外に立って泣いていた」(ヨハ20:11)です。ここでは「墓」が8回も出てきます。墓は「失うこと」「失われたもの」の象徴です。そしてマリアが2回口にする「主が取り去られました」は、わたしたちのあらゆる喪失体験につながってきます。

わたしがかつて出会ったある方は、若い頃突然愛するひとを失った体験を、その人の命だけではなく、生きている自分の命も奪われていった、と語られました。何かを失うことを通して、自身が失われる―。同時に、失われたものにある意味頼ってしまう。それもまたマリアの姿から浮かび上がります。ご復活のイエスさまがマリアに「わたしにすがりつくのはよしなさい」(17節)と言われたのは、失われたものに囚われることからの解放と、失われた自分の回復を約束する言葉でありました。

使徒言行録とコロサイ書は、人間が救いを必要とする状況として「罪人」「死んでいる(こと)」を指摘しました。それらは福音の出来事を通して見るといずれも、わたしたちが失われた者であるという人間状況を指していることに気づかされます。日本社会でもバブル経済がはじけた直後に社会人となった世代はロスト・ジェネレーション(「失われた世代」「さまよえる世代」)と呼ばれます。いまや日本社会に住む皆がそんな時代のなかに生きていると言えるのかもしれません。

こうした、一人ひとりの存在感が不安定になりがちな時代のなかで、キリストの福音(良き知らせ)は、異彩を放っています。なぜなら、この世のジェネレーションがたとえそうであっても、主の十字架と復活が与えられた世代(ジェネレーション)が、神さまとの関係におけるわたしたちの時代であることを指し示しているからです。

失われたわたしたちが、神さまの慈しみと愛のうちに取り戻されました。それがイースターの喜びです。そうして、わたしたちの人生が感謝へと変えられていきます。その、神さまの救いの業への応答として、感謝と賛美のまつりを今わたしたちは礼拝を通しておささげしています。そのことを心に留めて主のご復活をご一緒にお祝いしたいと思います。イースターおめでとうございます。