2020年3月22日     大斎節第4主日(A年)

 

司祭 パウロ 北山和民

「神の業がこの人に現れるためである」【ヨハネ福音書9章1〜37】

 この福音を前にしたとき、当時の社会・宗教の常識で障碍者や病人であることを「罪の人(9:34)」としていることから、わたしたちも「因果応報」といった思考停止に陥っていないかと考えるのです。「神の業が現れる人」とはどういうことだろうか。病気災いがなくなることなのだろうか。その「神」とは宗教祭儀の、献金する対象の神なのだろうか。
 イエスは(9:4−5に記されるように)終末的緊急性をもってわたしたちに「罪のゆるしによる救い」「罪人」とは何かを考えさせるのです。
 宗教的な罪でもなく、自分の怒りや傲慢さによって法に背いた、いわゆる罪人でもなく、イエスという人格と今ここで出会わねばならない「緊急性の課題をもった今のわたし(社会)」を想像させるのです。
 つまり聖霊(イエス)と何らかの出会いが起こっている「生まれつき目の見えない人」「通りすがりのイエスに見つけられる『罪びと』」とはこのわたしなのではないかと想像してみることが大事なのです。
 さらに想像力を膨らませるなら、当時の宗教的(魔術的にも感じられるが気にしない)なものを駆使してこの盲人に関わっているイエスは、典礼的宗教の枠を超える、力強い聖霊ではないかと思わされるのです。「信仰深い人」も「宗教の無い人」も区別なく、イエスが出会うなら誰もが「神の業が現れるため」の人、「見えなかったのに見えるようになった」人なのだ、という招きのメッセージではないだろうか。「主よ信じます」と、今ここで言えるのかどうかとイエスは迫るのです。私たちの教会はそれを邪魔してはいないだろうか。