2020年3月15日     大斎節第3主日(A年)

 

司祭 サムエル 門脇光禅

「渇くことのない水」【ヨハネによる福音書4:5〜42】

 今朝の福音書の直前に「4:3 ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。4:4 しかし、サマリアを通らねばならなかった。」とあります。ユダヤからガリラヤに行くには、必ずしもサマリアを通過しなければならないこともなかったわけです。通過しなければならない事情があったのかも知れません。道を強いられることは人生には多々あるように思います。
 洗礼準備をする際、洗礼を受けたら教会で色々と束縛を受けるのではないかと心配する人がいます。僕は「もちろんです」と答えます。自分もそのような質問を受洗前にしたのを思い出します。
 束縛を受けないで、神さまの恵みは受けることはできないと思います。恵みにあずかろうと思えば、そこで神さまと真実な交わりが必要なのではないでしょうか。
 そこにはすでに束縛があると思うのです。「通過しなければならなかった」という言葉に止むを得ずその道を通らねばならなかったことが示されています。
 ところがそこに大きな宝が隠されていました。サマリアの女性との出会いそして信仰への導きです。伝道は、多くの人を集めて福音を宣べ伝えることのように思いやすいのですが、一人の人の魂を本当に救えればそれこそが福音伝道ではないでしょうか。
 イエスさまは一人の女性に全力を注ぎました。34節に「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。」とあります。
 イエスさまは一人の人に福音を伝えることを本当に大切にしました。私たちは知らないうちにマスコミの世界のように数に引き入れられてしまっているのではないでしょうか。
 大切なのは個人の魂の救いだと思います。男性を転々とし生きることの苦しみを知り尽くして人に軽蔑されることに慣れてしまった女性が人目を避け、暑い盛りに、水を汲みに来たのでした。彼女が渇いていたのは、水だけではありませんでした。
 人々から本当の意味で自分を受け止めてもらえることに飢えていたのでしょう。自分のことを分かってもらえたらどんなに幸せかと思っていたのでした。
 そのような彼女がいつもの井戸に来たとき、喉が渇き、疲れ果てて座っている旅人を見かけました。やつれていても、ユダヤ人とすぐ分かりその方には気品が溢れていました。
 その人が、突然、女性に頼みます。「水を飲ませてください」。そういわれて女性はびっくりします。いつも人から蔑(さげす)まれ、疎(うと)んじられている自分に、ものを頼む人がいることに驚いたのです。
 しかも自分たちサマリア人を民族としてもまた女性としても軽蔑しているユダヤ人のりっぱな男性が頼んでいるからです。
 そこで「どうして私なんかに水を飲ませてほしいと頼むのですか」と尋ねます。それに対し、その気品ある男性が答えました。「私が誰か分かったら、あなたの方こそ、私に水を、それも永遠の命にいたる渇くことのない、生きた水を求めたろうに」と。
 即座に女性は言います。「私にもその水をください
 誰もが本当の意味で渇きを癒すものを求めています。
 人間がこの世に生まれてきたのはそのことを知るためといっては過言でしょうか。
 お金とか名誉、財産や家族等々、それ以上に生きることの意義、自分が自分で居て良いと言う確信を求めることが生きる意味だと言うと言い過ぎでしょうか。
 そして人は、本当に自分が自分でいることができて、また本当の自分を受け止めてくれる場を求めているものなのだと思うのです。
 そのことに気づくことさえないことも渇きなのではないでしょうか。
 イエスさまはサマリアの女性との水問答をされたあとに「あなたの夫を呼びなさい」と言われました。せっかく水の話をしていよいよクライマックスというとき「夫を呼んで来い」と話を変えます。そして「今の男性はあなたの夫ではない」と言われます。
 つまり、自分はそこに出て行かないで神さまの恵みだけを戴こうという考え方に対して、イエスさまはサマリアの女性を例にしようとされたのです。
 「あなたがどんなに汚れ罪深い者であっても。永遠の命に至る水が欲しいなら、あなた自身が神さまの前に出なければならない」と言われたのです。
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」マタイ22:32ということなのです。議論の神さまではなく人格的な神さまなのです。議論だけしているようなところに神さまはないと思うのです。
 先日も「このままでは日本聖公会或いは京都教区が無くなってしまうのではないか」と心配している古い信徒が電話をかけてきました。その人には「キリストはなくならないから心配しなくて良い」といいました。
 聖公会という教団や団体だけがすべてであるという間違いを犯してはいけないのです。もちろんキリスト教会も1つの団体なのですがその教会をなさしめているのは、生けるキリストなのです。
 そして生けるキリストとのつながりというのはそこで渇いてきても潤されるものが自分の中に流れていることなのだと思うのです。
 どんなに日照りが続こうとも心配しないでいいわけです。人間が心配し支えないといけないような神さまなどいらないのです。神さまが私たち人間を支えておられるのであって私たちはそのことを信じて生きるのです。
 そういう意味で私たちはもっと神さまの前に自分自身をさらけ出すべきだと思います。サマリアの女は礼拝する場所を聞きます。これは神学的論争です。イエスさまは「神学的にどんなに高等な議論であってもそこに隠れて自分が前に出てこなければだめです。礼拝は場所の問題ではなく態度なのです」「霊とまこととを持って礼拝しなさい」と言われたのです。「まこと」とは神さまの前に自分をさらけ出すことなのだと思います。
 第3者の立場に立とうとするサマリアの女性を「神さまと自分との関係」「我と汝」に立たせたのです。
いつものことなのですが神さまからの呼びかけに対して私たちはイエスかノーしかありません。「ちょっと待ってください」はありません。そこに信仰の厳しさがあります。
 安全地帯に居たい気持ちはあります。しかし、自分自身が神さまの前に出てゆく生活、それがまことの生活ではないでしょうか?
 よき大斎節をお送りくださることお祈りいたします。すべてのことに感謝します。