2020年3月1日     大斎節第1主日(A年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

 私たちは、人間が人間らしく生きる道はどこにあるのかをいつもわきまえているわけではありません。むしろ見失っていることが多い。そして、さ迷い、捜し求めています。そうした私たちが、主イエス・キリストに出会い、十字架のご受難の出来事の中に、私たち人間の過ちと罪を見出し、同時に、主イエスの歩まれる道に誠の生きる道を見出すとき、復活の意味が見えてきます。そして、私たちも主イエスのご復活の命、神様の愛の命に与り生かされることができるとしたら、それは救いであり、大いなる喜びです。その喜びに向かって歩むのがレント、大斎節です。
 このことのために、この大斎節中、教会では、特別の黙想会や礼拝をもっていきます。一人ではなかなかできません。すぐに見失ってしまう弱さがあります。教会で信仰生活に必要なプログラムがあって、それを皆で守っていこうとすることによって信仰生活は成り立っていくものだと思います。ある意味で、教会はそのためにあります。ですから、大斎節中は、可能なかぎり教会のプログラムに合わせて生活を考える。これも大斎節中の意味ある過ごし方であると思います。どうか、主日の礼拝と黙想会はもちろん、水曜日の黙想会、聖週の礼拝のときを大切にしていただきたいと思います。皆で守っていきましょう。

 さて、きょう大斎節第1主日に読まれる福音書は、「荒野での誘惑」です。今年はマタイによる福音書の箇所が読まれました(4:1−11)。
 皆さんも体験されていることだと思いますが、聖書というのは、年齢によってその受け止め方、あるいは、メッセージが異なってくるということがよくありますね。小学生の低学年の頃、日曜学校で紙芝居を見て、なんの疑いもなく、そういうものとして素直に受け止めていた時期もありました。中学生頃になって、悪魔の誘惑を非現実的なものと思って、聖書に躓きを覚えた時期もありました。大学生になって、もっと現実の問題に取り組んでいる人たちに憧れて、そういう生き方をしたいと求めた時期もありました。しかし、いろいろな現実を体験し、聖書に書かれていることの理解が多くなるにつれて、悪魔の誘惑は非現実どころか、いかに私たちに人間のシビアな現実を描いているか、こうした表現を用いて現実を伝えようとしているかということに心の目が開かれてきました。そうすると、聖書のみ言葉が、生きたメッセージとなって語りかけてきます。
 きょうの旧約聖書日課もまさにそのことを物語っています(創世記2:4b−9、15−17、25−3:7)。アダムもエヴァも、最初は神様に造られたままに素直に生きていました。ところが、蛇の誘惑は彼らの人生を変えてしまいました。どのように変わったのでしょうか。彼らは隠すようになりました。自分のありのままの姿を、そして、きょうの朗読箇所に続く3章の8節以下では、主なる神が園の中を歩く音を聞くと、アダムとエヴァは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠すという行動が描かれているんですね。
 アダムはヘブライ語で人間を意味する言葉だと言います。蛇の誘惑によるアダムとエヴァの生き方の変化は、決して、単なる作り話の物語ではありません。私たち人間の現実の姿を描き出しているのです。このエデンの園の物語には、誘惑にはまって、神様との不調和、自分自身との不調和、隣人との不調和、そして自然との不調和に陥ってしまった人間の罪の姿が描かれているんです。神様との不調和、自分自身との不調和、隣人との不調和、自然との不調、事実、こうした様々な不調和の中で、私たち人間はいかに苦悩していることでしょうか。
 悪魔の誘惑は、基本的にはエデンの園の蛇の誘惑と同じです。置かれているそれぞれの状況に応じて、人間の欲望、弱さに巧みに誘いかけてきます。そしてそれは、その人の生き方を変えてしまうような力となっていきます。第1の誘惑のパンは富の象徴であって、富への執着への誘惑です。第2は自分の能力を誇示しようとする自己顕示欲への誘惑であり、第3は「権力と繁栄」への執着に対する誘惑です。私たちの生きる社会は、今、どれだけこれらの誘惑の力に惑わされていることでしょうか。
 しかし、主イエスは見事にそれらの誘惑を退けられます。み言葉によってです。み言葉への信仰に立ち続ける。そこにこそ誘惑に惑わされずに生きる道がある。復活がある。一人ひとりの、そしてこの世界の新たな生へのよみがえりがある。神様の愛の命に生きる新たな生へのよみがえりです。蛇や悪魔の誘惑で表現されている力に打ち勝つ力、命があることを示してくださっているんですね。
 皆さん、私たちはどのような世界を後の世の人たちに引き継いでいくのでしょうか。言うまでもないことですが、戦争と混乱ではなくて、和解と信頼、愛と平和、調和のある世界を後の世に引き継いでいきたいですよね。そこに至る道をイエス・キリストは示してくださっています。私たちをそこへ招いておられるのです。