司祭 マタイ 古本靖久
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。(マタイによる福音書5章14節)
「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」、この言葉を聞かされたときに、わたしたちはどのような思いを持つでしょうか。
この箇所は、山上の説教の一部分です。「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」から始まる8つの幸いに続いて、イエス様はこのように語られました。しかし今日の箇所には、それまでの語り方と大きく違う部分があります。それは「〜な人々は」と三人称で語られていたのが、ここから「あなたがたは」と二人称で語られているということです。
山上から語られる言葉が、一般的なものではなく自分に対してのものになったのです。そこで「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」とイエス様は言われる。その言葉をわたしたちはどのように受け止めればいいのでしょうか。
地の塩、世の光。その意味をイメージしようとすればするほど、自分の姿とは程遠いと思うことがあります。塩がこっそり味付けをするように、わたしは周りの人の間で自己を主張することなく神さまを伝えることができているのだろうか。塩が物を清め、腐敗を防ぐように、わたしは人と接することができているのだろうか。
わたしは世の光として、人々の前で輝いているのだろうか。そもそも立派なおこないなど、できているのだろうか。
しかしここで、イエス様が語られた言葉をもう一度読んでみたいと思います。イエス様は言われました。「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と。そのようになるように努力しなさいということでも、そうなればいいという希望でもありません。あなたがたはすでに、地の塩であり、世の光であると宣言されているのです。
イエス様の周りで山上の説教に耳を傾けていたのは、宗教指導者やエリート、お金持ちではありませんでした。貧しい人、悲しむ人、病む人、傷む人、虐げられ、蔑まれ、社会の底辺に追いやられた人。神さまにしかすがることができず、必死の思いで暗闇の中を生き続けている人たちでした。その人たちに向かって、イエス様は宣言されます。「あなたがたこそ地の塩であり、世の光なのだ」と。
あなたがたがいるから、み言葉は人々の間に住み、光は人々を照らしている。イエス様は「あなたがた」のことを、そのように見てくれているのです。
わたしたちもそうです。わたしたち一人ひとり、イエス様に招かれ、ここに立っているのであれば、すでに地の塩であり、世の光です。わたしたちはイエス様にとって欠かせない存在です。そして暗闇が光に照らされるように、神さまの光に包まれたわたしたちは周りの人たちに光を届かせていきます。
つまりわたしたちが神さまに生かされることで、隣の人も生かされていくのです。
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