2020年1月26日     顕現後第3主日(A年)

 

司祭 ダニエル 鈴木恵一

 イエスさまは、ガリラヤ湖のほとりを歩いていたとき、湖で網を打っている兄弟に出会いました。そして「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」といわれました。この兄弟シモンとアンデレはすぐにイエスさまに従いました。様々な絵画にも描かれている印象的な出来事です。2人だけでなくヤコブとヨハネも、イエスさまから声をかけられ、すぐにイエスさまに従ったことが聖書に記されています。
 だいぶ前のことですが堅信を受けるかどうか悩んでいた時、イエスさまから直接声をかけられたら、何も悩むことはないだろうにと、思いました。でも、よくよく考えてみると、「人間をとる漁師にしよう」というのはなんだか恐ろしいようにも感じます。人をとるのも魚をとるように網をかけるのでしょうか。網が体に絡みついて、身動きが取れなくなってしまった人の姿を想像すると、イエスさまはなんと怖いことをおっしゃるのだろうかとも感じたことを思い出しました。
 旧約聖書では預言者エレミヤは「多くの漁師を遣わして、彼らを釣りあげさせる、と主は言われる」といいました。神さまはすべてをご存じで、神さまの前にはすべてが明らかになることを伝えたのでした。「人間を漁る」ということには、「人々の罪を明らかにし、神のさばきを告げる」というとても厳しいメッセージが込められています。ですから「人間を漁る」と聞いて恐ろしさを感じることに無理はないのかもしれません。
 しかし、エレミヤは、神さまの裁きと同時に神さまの救いを告げています。「人々はもう『イスラエルの人々をエジプトから導き上られた主は生きておられる』と言わず『イスラエルの子らを、北の国、彼らが追いやられた国々から導き上られた主は生きておられる』と言うようになる。」とエレミヤは告げました。バビロンに連れて行かれたユダの人々は、もういちどユダの国に帰ってくるという約束です。その時には、かつて人々に罪を示し、神さまのさばきを告げた「漁夫」や「狩人」は、こんどは人々を慰め、神さまの救いを告げるというのです。「人間を漁る」というのは、バビロンから人々救い出すこと、罪の中ある人々を救い出して、天の国へと人々を連れていくという救いの業をも示しています。
 イエスさまの招きも、新しいものへの招きというよりも、本来あるべきところへの招きです。わたしたちひとりひとりも、神さまのとの本来の関係に戻ること、本来の自分へともどることへと招かれています。
イエスさまに従った弟子たちのように、わたしたちもよろこびに満たされて、ご一緒に歩みを進めていきましょう。