司祭 マーク シュタール
ここ2週間ぐらい、立教のキャンパスに入ると、すごくいい匂いがします。キャンパス内には色々な木々があり、その落ち葉の強くて甘い香りがします。私はその匂いが大好きです。そして、落ち葉の中を歩くこと、とても良い音がします。紅葉もとても綺麗です。鼻、耳、目、全てが喜ぶ季節です。しかし、落ち葉の美しさ、音と匂いを楽しむあまり、私たちは同時に実は「死」を見届けていることを忘れてしまいます。新しい命が生まれる前に、古い命がまず去らなければならない。木々にわずかに残る葉や綺麗な落ち葉は新しい命の誕生を待っている姿なのです。命そのもの、命の移り変わり、今日の聖書のみ言葉はそれを見つめ直す機会を与えてくれます。
旧約聖書(エレミヤ書23:1−6)で、エレミヤは羊飼いの話をします。この時代の人は「羊飼い」は「支配者」を意味するということをよく知っていました。エレミヤは無責任な支配者に対する神様の苦言を説明します。この頃、イスラエルの民はあちこちに散らばっていました。神様は言われます。「災いだ、私の牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と。悪い羊飼いは羊を散らしたままで、顧みることをしていないと。ここに支配者は、権力を振りかざすのではなく、神様の真理を第一に置くことが最も大事だというメッセージが伝わってきます。神様の真理を優先できない人はどうなるか?エレミヤが示唆しています。主が罰すると。でも、この結末はそんなに簡単ではありません。私たちは神様を優先しても、時に過ちを犯したり怠けたりしてしまいます。そんな時、私たちは神様からの助けが必要です。だから、神様は約束しました。「ダビデのために正しい若枝を起こす」。その若枝とは、もちろん主イエス・キリストです。エレミヤ書で、神様がその若枝の名を「主は我らの救い」と呼ばれました。
使徒書(コロサイの信徒への手紙1:11−20)でも、同じテーマが見つかります。コロサイの信徒たちは、世の見えない力、例えば、「闇の力」や「王座も主権も支配も権威も」すべては自分たちに対して脅威だと思っていました。なので、もしかしたら、イエスの救う力は大して期待できないと心配したかも知れません。それに対して、パウロは、キリストは人々の想像をはるかに超える存在であると伝えます。イエスは彼らの恐れる脅威よりも高いレベルにおられる方で、すべての被創造物が造られる前からおられた、また、すべての被創造物の上にいる方であると説きます。そして、イエスの救いのみ業がすべての被創造物を神様と和解させられました。イエスはあらゆる超自然の力に勝ります。「神は御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく、御子の内に宿らせた。」とある通りです。まさしく、エレミヤ書にある通り、神様が約束された正しい若枝なのです。
今日の福音書(ルカによる福音書23:35−43)は聖霊降臨節の終わりにふさわしいです。なぜなら、この場面はイエスの苦難の最後のところだからです。ある意味、この場面は紅葉や落ち葉の季節と同じですが、イエスの苦難は美しくはありません。しかし、視点を変えれば、この場面は歴史的に人間的にあるいは宗教的に「心が美しい」という意味で美しい場面だと言えるかも知れません。共に十字架にかかった犯罪人二人のうち一人がもう一方の犯罪人に言います。「神をも恐れないのか?同じ刑罰を受けているのに」。これはもう一方に言ったというより、わたしたちに突き付けられていると考えることができます。レベルはもちろん違いますけれども、私たちも神様に対して罪を犯している存在です。そんな私たちはいつも導きが必要です。この犯罪人続けて「しかし、この方はなにも悪いことをしてない」のにと。イエスは完璧ないいけにえとして、神様の御心に完全に従いました。この場面はエレミヤ書の中の約束「主は我らの救い」を証しするもの、コロサイの「闇の力よりの上にイエスの存在」があることを示しています。そして、次の場面でその犯罪人は非常に簡単なお願いをしました。「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、私を思い出してください」と。それに対して、イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日、私と一緒に楽園にいる」と言われました。紅葉の落ち葉や残っている葉っぱも美しいですが、この場面の美しさも劣らず美しいです。
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