2019年11月10日     聖霊降臨後第22主日(C年)

 

司祭 セシリア 大岡左代子

生きている者の神【ルカ20:27、(28−33)34−38】

 今日の福音書は、「復活についての問答」と言われている箇所です。復活を否定していたといわれるサドカイ派の人々とイエスとの問答です。聖書日課の省略してもよいとして〔 〕に入れられている部分は、いわゆる「レビラート婚」に関するものです。申命記25章5節〜10節には、「家名の存続」という小見出しがつけられていて、夫婦に子どもがなく夫が先に亡くなった場合、その妻は夫の家族以外の他のものに嫁いではならず、その兄弟と結婚して子どもをもうけ、長子に家名を継がせ、その名を残さなければならない、と記されています。イエスの時代、結婚と出産は神からの祝福の対象であり、当時のキリスト者の間でも結婚と出産の持つ意味は論争の的でもありましたが、それゆえに女性を抑圧し、圧迫する装置ともなりました。一方で、「人は死んだ後、再び生きるのか」という問いには、人間の限りある生への苦悩とある意味の恐怖、そしてそこに神はどのようにかかわってくださるのか、という根源的な問いがあったのではないでしょうか。
 サドカイ派の人々がこの問いをイエスに投げかけたのは、「復活」という出来事と「蘇る」(蘇生)という出来事を同じと考えていたからかもしれません。この問いに、イエスはきっぱりと答えられます。「次の世に入って死者の中から復活するにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない」「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と。
 聖霊降臨後の期節がわずかとなり、教会の暦では一つのサイクルの終わりを迎えているこの時、わたしたちにこの福音書が与えられているのは、イエスが指し示す復活の命は、今のこの世での在り方とは全く違うものであり、イエスが示された復活の命を生きるということは、これまでの生き方を根本的に変えられて、新たに生きるということを示しているということを再確認するためです。そこでは、この世的な価値観で家名を残す必要もなく、そのために女性があらゆる圧迫や束縛を受ける必要もなく、男性も亡くなった兄弟の妻と再婚する義務も負いません。すべての命は、神の前では等しく大切な命として存在しているのです。「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とのイエスの言葉はわたしたちに何を語りかけているのでしょうか。ともすれば、これまでの習慣や前例、自分の価値観にこだわり新たに生きることを拒みがちなわたしたちですが、それらの束縛から解放されるときに、イエスの示される復活の出来事に出会うことができるのかもしれません。