司祭 クリストファー 奥村貴充
私は学生の時にキリスト者学生会で活動していて、そこの仲間たちで社会福祉学科の人が結構いました。その時の私は他学部に在籍で、まさか自分が数年後勉強するとは夢にも思ってもいませんでした。さて本日は「社会事業の日」として日本聖公会では定められています。教会関連事業の愛の園や滝之川学園、エリザベス・サンダースホームなどの社会福祉施設を心に留めて祈りを献げる日です。
本日の福音書(ルカ18:9−14)は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対してイエスが語られた譬え話です。その譬えの中で中心となる聖書の言葉は、徴税人の祈り「神様、罪人のわたしを憐れんでください」が挙げられます。これに対してファリサイ派の人の祈りは「わたしは…」となっています。この2人の祈りの内「わたしは…」と「わたしを…」の違いは決定的です。ただ、ここを強調し過ぎると人を類型化して考える危険性があります。私たちの心の中にはファリサイ派のような面と徴税人のような面が混在しているからです。従ってここの譬え話の要点は自分を中心にするのか、あるいは神を中心にするのかということです。譬え話では徴税人は謙虚に神に祈る姿が印象的です。風が気圧の低い方向に吹いていくように、神を中心にして自分の心を低くする時、魂に聖霊が吹いていきます。結果、良き導きにつながっていきます。冒頭で挙げた社会福祉の諸施設も人の思いではなく、神を中心に働きを続けたからこそ良い実を結んだ実例です。今日の社会福祉の現場、特にキリスト教を土台とした施設での実践を考えた場合、どれだけ自分を低くして神を中心にしていけるのかがこの譬え話を通して問われています。
さて私は社会福祉援助技術論の授業でフィードバックという言葉の説明を先生から受けたことがあります。フィードは食べ物のフードと関連語で、ご馳走になったお返しに、今度は相手のお腹を満たすように、対話も相手の心を潤すような応答をするのがフィードバックです。ところで随分前の話ですが、ある人がいました。その人は「わたしは…」が強くなってしまったが故に、自分の価値観の押しつけ・一方通行的な話しかけになってしまいました。あたかもファリサイ派の人のように自分で善悪の判断をするかのような感じです。このように相手の心を飢え乾かせる関係は対話でもフィードバックでもないと、その人の話を知人から聞いて感じたものでした。しかし、その人にも神の導きはちゃんと備えられています。自分が中心と思っていたその人にも人生の壁にぶつかる時が来たのでした。これはプラス思考に考えるならば神から与えられた試練、そして神の方向に向き直す機会が与えられたと言ってもいいでしょう。そのことに気づかされた時にファリサイ派の人のような「わたしは…」ではなく、徴税人のような「わたしを…」という発想の大転換がもたらされます。こうして神を中心に自らを低くする時、神との関係も、また他者との関係も良い方向へ導かれる恵みがもたらされます。こうした神の恵みに私たちは何を以てお返ししていけばいいのでしょうか。その1つに小さき者の内に神のメッセージを感じ取り、その人の隣り人になっていくことが挙げられるでしょう。隣り人になるとは、相手が生き生きとなれるよう配慮する働き、まさにフィードバックの関係です。
本日は「社会事業の日」です。社会福祉の現場で求められていることは、相手に生きる希望が芽生えるような働きかけです。これは自分の努力ではなく、聖霊の導きにより可能です。みんなの心が希望に満たされ、そして生き生きとした関係が出来る時、共に生きる社会が実現します。神から受けた恵みを分かち合えるよう祈りを献げて参りましょう。
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