2019年10月20日     聖霊降臨後第19主日(C年)

 

司祭 サムエル 奥 晋一郎

「これからもずっと祈る」【ルカ18・1−8a】

 今回はルカによる福音書第18章1節から8節までの箇所を見ていきましょう。イエスさまは弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、たとえ話をされました。どうして、イエスさまは弟子たちに気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えたのでしょうか。弟子たち、ことに使徒と呼ばれる12弟子はユダヤの北部、ガリラヤ地方から、イエスさまに従ってきました。彼らは地元を出て、これまでの職業を捨てて、イエスさまに従ってきました。ただ彼らはイエスさまに従って、心を神様に向けて祈りつつも、将来、本当に神様からの救いにあずかれるのだろうかという不安、またこれからどのような生活が待っているのだろうという不安から、気を落としていたのかもしれません。そんな中、イエスさまは彼らに「やもめと裁判官」のたとえを話されました。

 ある町に神を畏れず、人を人と思わない裁判官がいました。そこへ、一人のやもめが来て「相手を裁いて、わたしを守ってください」と言います。夫が死亡してか、または夫に一方的に離縁されて一人になったのかはっきりとしませんが、当時のユダヤの国ではやもめ、女性一人で生活することは差別もされ、生活をしていくのに非常に厳しい状況でした。だからこそ、この女性は人を人と思わない裁判官であっても、熱心に「相手を裁いてほしい」とお願いせざるを得ませんでした。そこで、その裁判官は「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、やもめがうるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。そうしないとひっきりなしにやってきて、さんざんな目に遭わすにちがいない」と言いました。そのたとえ話の後、イエスさまは、「この不正な裁判官でも、しつこく言えば、裁いてくれる。ましてや神様なら、訴えてくる人を放っておくことがあろうか。神様なら速やかに裁いてくださる」と言います。これのたとえ話から、イエスさまは弟子たちに、たとえ、気を落とすようなことがあったとしても、神様は放っておかれることはないので、あきらめずに、祈るようにと言われました。

 4節に裁判官の言葉で「人を人とも思わない」という言葉が登場します。その肯定文の「人と思う」という言葉に注目します。この言葉の元々の意味は「ぐるりと向ける」という意味です。ですから、この裁判官は人を人と思わない方向、すなわち自己中心的な方向に心を向けていたといえます。しかし、その裁判官ですらすら、やもめがしつこく頼んできたので、これまでの人を人と思わない考えから、ぐるりと方向を向け、考えを改めて、やもめのために裁判を行なったことをイエスさまは弟子たちに伝えます。さらに、イエスさまは弟子たちに、神様は人のようにぐるりと方向を変えることはせずに、常に人を思いやっておられることを伝え、気を落とさずに絶えず祈るようにと言われました。

 このイエスさまが弟子たちに言われたことは、私たちにも言われています。私たちはどうでしょうか。いつでも心がうれしい気持ちで祈ることが出来ているでしょうか。生きていれば様々な感情があると思います。うれしいこと楽しいことばかりではなく、悲しいこと、他の人には分かってもらえないという不満も時にはあるかもしれません。また、弟子たちと同じように、私たちもイエスさまに従って、心を神様に向けて礼拝しつつも、祈りつつも、将来、本当に神様からの救いにあずかることができるのだろうかという不安を持ってしまう時があるかもしれません。しかし、そんな状況にあったとしても、イエスさまは弟子たちと同じようにわたしたちにも気を落とさずに、絶えず祈りなさいと言われます。さらに、神様は裁判官、すなわち人とは違い、人のようにぐるりと方向を変えるのではなく、常に私たち一人ひとりを思いやって下さっていることをおられることをイエスさまは伝えています。また、イエスさまはわたしたちが祈ることが困難に陥る時があることも知っておられます。だからこそ、生きることに希望が持てないと思った時であったとしても、絶望し、投げ出さないで、希望を持って、喜びをもって日々祈るようにと言われます。そのように祈るのは、私たち人間にはいつかは分かりませんが、イエスさまが再び来られる日まで、再臨の日までです。これらのことを心に留めながら、わたしたちは祈ることが困難な状態にあったとしても、気を落とさずにこれからもずっと礼拝を、祈りを大切にし、喜びと希望を持って生きていくことができればと思います。