2019年9月15日     聖霊降臨後第14主日(C年)

 

司祭 アンナ 三木メイ

「神の天使たちの間の喜び」【ルカによる福音書15:1〜10】

 聖書のなかでも「見失われた羊」のたとえ話は、とても有名です。これによって、一人ひとりに注がれる神の愛の豊かさが語り伝えられています。羊と羊飼いに例えて語る記事は、旧約聖書にもいくつかあります。エゼキエル書34章には、預言者に臨んだ主の言葉としてこう書かれています。「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは」と、王たちを厳しく叱責し、「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」、と神自ら失われた羊を探し出し、追われたものを連れ戻し、良い牧場と肥沃な牧草地で養い、憩わせ、傷ついたものを包み、弱ったものを強くするというのです。
 おそらく、イエスはこの預言者の言葉を知っていたのでしょう。ですから、ルカ福音書の「見失われた羊」は特別新しいたとえ話だったわけではなく、昔の預言の言葉のなかに示されていた神の愛を改めて語り伝えた、とも言えるのです。ただ気をつけて読むと、この二つの箇所にはとても大きな違いが一つあります。それは、神が探し出すのは、預言書では「羊の群れ」であり、ルカ福音書では「見失った一匹の羊」です。旧約聖書は、イスラエルの民全体に神の救いが与えられるという信仰をベースに語り伝えられています。だから「群れ」なのですが、その信仰共同体のなかでファリサイ派は、ある特定の人々に対して、彼らは律法を守ってないから救われない者たちだ、罪人だとして差別し、交わりを断っていたのです。だからこそ、イエスはそうして神とのつながりを見失わされ、傷つけられた一人ひとりを探し出し、その人々と食事をしながら、彼らへの神の愛を証しして、福音を伝えたのでした。
 現代では、共同体、コミュニティそのものが解体してしまって、誰もがちりぢりに散らされ、孤立しているような社会になってしまっています。そのようななかで、いじめの問題も後を絶ちません。小さな傷ついた魂へのケアは行き届かないことが多いのです。そして、その傷を抱えながら成長した若者や大人も多くいるのです。
 私たちは、傷つき、疲れ果てた一人ひとりに注がれている神の愛を信じて、良い牧草地を自らの心に備えて、そこに一人ひとりが癒され、憩える場所を造り出していきましょう。神の天使たちの間に喜びがあるようにと祈りながら、神の愛のみわざに参与していきましょう。