執事 アンデレ 松山健作
イエスさまは、エルサレムへの旅路を多くの群衆たちと共にしていました。群衆たちは、何を目的に何を求めてイエスさまと旅路を共にしていたのでしょう。もしかすると、何か多くの人間的な期待をイエスさまに抱いていたのかもしれません。
イエスさまといれば、たくさんの恵みをいただける。イエスさまといれば、安らぎが得られる。イエスさまといれば、家族が守られる。イエスさまといれば、食べるのに困らないなどなど、いろんな期待をしながら、イエスさまについて来ていたのではないかと想像します。
しかし、イエスさまは、群衆に向かって厳しい言葉を言い放ちます。それは、自身について来るのであれば、家族、さらには自分の命をも「憎む」中でついてこなければ、「わたしの弟子ではありえない」とおっしゃるのです。
「憎む」とは「少なく愛する」という意味をも持ちます。つまりは、「家族や自分よりもイエスさまを愛する」ということができなければ、わたしについて来る資格はないと言い放つのです。これがイエスさまのおっしゃる「十字架を背負う」という意味なのです。
なんと厳しい言葉なのかと思うかもしれません。群衆を癒し、恵みを与え、食べさせるのではなく、十字架の苦しみの困難さの中に群衆、もしくは私たちを引き入れようとされます。どれだけの群衆が、この後イエスさまについて行くことができたでしょうか。どれだけの群衆が自らの十字架を背負うことができたのでしょうか。
わたしが、この群衆の中の一人であり、イエスさまの言葉の真意を理解したならば、後ずさりしたかもしれません。その時に自分の中にある欲望や捨てきれないものに遭遇します。イエスさまの弟子になりきれていない自己の葛藤なのかもしれません。厳しいイエスさまの言葉が、のしかかって来るのです。
イエスさまが意図する「弟子」とは、「自分の持ち物」すべてと決別した存在を受け入れることを表明しています。つまり、自分が属するすべてのもの、自分が支配しているもの、自分の所有のものに執着することからの決別を弟子の条件としています。
わたしたち人間は、自らの欲求や感情を放棄する際、心の中にさまざまな未練や葛藤、困難を抱きます。十字架を背負うという行為、イエスさまの弟子になる条件とは、まさにその苦しみの中に身を自ら投じていくことであり、十字架上で示される痛みを共に担うことなのではないでしょうか。
イエスさまの十字架上での苦しみを想像する際、私は日々の自己の生き方を問われているような気がします。懺悔をせざるを得ません。その中で主に赦されることによって新たな命が与えられ、他者への視点が整えられ、仕えることができますようにとお祈りしています。
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