司祭 ヨハネ 黒田 裕
“する”と“される”の逆転【ルカ14:1,7−14】
初めて神学生の教会実習の指導司祭になった頃のこと。一方的にこちらが彼らの観察をしていると思ったら大間違いということに気づきました。実は「見られて」いるのは指導司祭側だったりするのです。
さて、ある人の家に招待されたイエスさまの様子を人々はうかがっていました。彼らはイエスさまを見ていたつもりでした。
ところがイエスさまに見られていたのです。彼らはイエスさまを問うつもりでした。しかし逆に問われてしまうのです。
この譬えでは単に人間同士の関係についてというよりも神さまとの関係についての証しでありました。そのことは、もう一つ語られる譬えも同じです。あくまでも招いて下さるのは神さまで、その逆ではないのです。
また、もう一つの譬えでは「むしろ貧しい人、体の不自由な人…を招きなさい」とあります。これには次のような意味があります。つまり、当時の生活感覚から言えば、招くことはその人に負債を負わせることにもなるが、こういった人々は返済できないので見返りを求めずに招くことになる、ということです。
しかし、そのような倫理的、道徳的な意味もあるとはいえ、究極的にはむしろ、人間からの見返りを求めずに、神さまは私たちを招い下さっている、といえるのではないでしょうか。考えてみれば、そもそも私たち人間は、なにがしかの返済を神さまに対してできるわけではないのです。
このように、二つの譬えで語られているのは、徹頭徹尾、招いて下さるのは神さまだ、ということです。だからこそ、その神さまからの招きがなかったかのように、自分から上席に着こうとする、また、なにがしかの返済が神さまにできるかのような態度を、戒めておられるのではないでしょうか。
神さまとの関係においては、あくまでも、する側はされる側に逆転していることを心に留めたいと思うのです。
私たちは通常、聖餐式をすることによって恵みが与えられると考えます。しかし、むしろ恵みが与えられているがゆえに、聖餐式に集まり、感謝と賛美をささげているのではないでしょうか。
神さまとの関係において、私たちが普段思っている、「する」と「される」とは逆転することがある。そしてそれ自体が恵みの時であることを、今日ともに分かち合いたいのです。
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