2019年8月18日     聖霊降臨後第10主日(C年)

 

司祭 サムエル 小林宏冶

「平和を願う」

 今回取り上げるのは、ルカによる福音書第12章49節から56節の聖書の箇所です。この中で取り上げられていることは、平和についてです。8月という月にふさわしいテーマでもあります。
 神様はこの世界に平和を望まれています。また、わたしたちも平和を望んでいます。けれども、わたしたちの周りは本当に平和でしょうか。
 目の前にあるのは現実ですが、なかなか本質的なものが見えていないのがわたしたちです。日本においては過去70年以上、いろいろな努力の結果、他の国と表面的には戦争をしていません。それは素晴らしいことです。けれども、いろいろなところで、小さな小競り合いや、衝突が起きています。愛国心を教える教育や、固有の領土を強く主張する言動は、大きな緊張を起こします。
 このようなことは、国と国との間の問題だけではありません。地域と地域、団体と団体とで、また人と人との間でも起こっています。
 この現実に向き合うことを求めているのが、イエス様の言葉ではないかと思います。

 「わたしは、この地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」

 この言葉には、とてもインパクトがあります。平和ではなく、分裂をもたらせるために来たと言われているのですから。
 わたしたちが聖書から教えられてきたことは、分裂ではなく、神様を中心に一つになることです。神様がこの地上に平和をもたらせるということでした。けれども、上記の言葉はまるで反対のことを言っているようにも聞こえます。
 だとするならば、イエス様が求めておられる平和と、わたしたちが求めている平和とに、違いがあるということになります。では、イエス様が願った分裂もある平和とはどのような平和なのでしょうか。それは、表面的な平和ではないということです。イエス様は、わたしたちに見せかけの平和を望まれたのではないのです。だれもが神様の愛の内に生きる世界です。だれもが仲良く、助け合い、支え合って生きることを望まれているのです。それが、イエス様の願う平和です。ただし、わたしたちがその平和を望み、そのために努力するならば、その先には、大きな壁や苦しいことがあると言われているのです。
 力を持つ者が自分の満足のために、神様の平和をねじ曲げ、自分たちの都合のよい不正義な世界から利益を求めようとしています。その不正義に立ち向かうようにと、イエス様は教えられています。わたしたちも、本当の平和を願うものでありたいと思います。神様と共に、わたしたちは、平和を願うだけではなく、平和をつくりだす人としての歩みを共にしていきたいと思います。