2019年8月11日     聖霊降臨後第9主日(C年)

 

司祭 パウロ 北山和民

 ルカ福音書は、聞く者、わたしたちに「今はどんな時なのか」と問い、イエスは今の現実の課題や破れの中に生きておられる知恵であり聖霊であると教える。そしてあなたを、「誰の隣人になるべきか」と目覚めさせようとしている福音書なのです。
 そして本日の福音(ルカ12:32−40)は、第12章の宣教活動の現実であるファリサイの偽善、律法学者の偽善の渦巻く社会の中にとどけられている。ファリサイの偽善とは、11章37節以下にあるようにイエスが「人目につかぬ墓のような(11:44)」と言う宗教、現在の私たちの教会への批判のことなのです。律法学者の偽善とは、「人の重荷を見て見ぬ振りする(11:46)」とイエスが告発する、無責任な政治(ガバナンス)のことです。これらの偽善はいづれも「誰でも、殺して自分も死にたい」というような近年目立っている悲惨な事件が象徴する、いわゆる「閉塞感」「魂の危機」について私たちに考えさせるのです。その現実の中に「主人が返ってきたとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」という招き、即ち「今を見抜き、主体的に生きるための終末論」への招きがこの本日の福音なのです。
 経済成長の時代、右肩上がりの50年ほど前「日本人は8月だけ正常になる」とある評論家が言った。今、少子高齢化のこの国でも、やはり8月の広島・長崎そして敗戦を、国を挙げて記念することで少しは「正常」になれるのかもしれない。それは、お盆の季節とも重なり、閉塞感に包まれている多くの日本人に、命について「私の死」について考えさせ、落ち着きを与えることになるのでしよう。
 振り返って、わたしたちの教会・施設は、地域や国の課題(たとえば高齢の親の介護と看取りの不安)を自らの祈りの課題とし、共に悩み苦しんでいるでしょうか。日曜日の礼拝の中に、救いに至るような「共感」「悔い改め」があるでしょうか。
 御心にかなわない私たちの教会であるにもかかわらず、主は「小さな群れよ、恐れるな」と招いてくださっています。それは本日の福音の直前の22節以下にあるように、「父親がその子に、自分の命に代えて必要な命のパンを与える」という真実に基づく確かな招きなのです。