司祭 ヤコブ 岩田光正
「祈る私たちに必要な良い物」
イエス様は、先ず、あるたとえを話されました。真夜中に友人の家に出掛けて行き、パンを三つ貸して欲しいと必死に願うというお話です。普通あり得ないお話です。
でも、聖書の世界では、旅人がふいに訪ねて来てもおもてなしするという伝統があったそうです。この場合、友人がやってきたのに何も出すものがない、そんなことはあってはならない、だから、真夜中にも関わらず助けを求め、友人の家に、お願いにやって来たのです。初め、友人の態度は冷たいものでした。戸も閉め、子供も傍で寝ているので起きるわけにはいかない、当然の反応です。でも、この人は懲りずに何度も戸を叩いて願いました・・・「しつように」という言葉があります。この言葉は、元々「恥知らず」の意味があります。そう考えると、このお話は次のように考えることができます。「恥知らず」とは、一つは、真夜中に訪ね、恥知らずにも戸を叩き続け、助けを求めている人の姿です、そしてもう一つ、家の寝床で一体どうしたものか思案している友人の心の有り様も示していないでしょうか?
最後、友人は自分に助けを求め、必死な友を見捨てる様な恥知らずなことなど出来ない、そう痛感しました。だから、起きて必要なものを与えました。自分の友人の恥は、とりもなおさず自分自身の恥でもある、このたとえ話でイエス様は何を伝えておられるでしょうか?人間同士でさえ、執拗に、恥知らずに助けを願えば、友人は相手を放っておくほど恥知らずなことはできない思い、受け入れてくれる。それなら天の父である神様なら尚更だ、執拗に、恥知らずな位、必死に求める助けを聞き届けてくれないはずはない。イエス様はこのことを教えられておられるのだと思います。父なる神様は私たちの恥を他人事の様に傍観していられない、その恥をご自分の恥として心砕いてくださる、そうしなければご自分の面目がつぶれる、栄光が傷つけられる、それ位真剣に私たちの思いを受け止めてくださるのです…と。
次に、イエス様は、同じことを人の父親の姿にたとえています。魚の代わりに蛇、卵の代わりにさそり、とは幼児虐待を思い浮かべます。でも、普通父親が自分の子供に必要な物を与えず、敢えて危害を及ぼす物を与えることなどあり得ません。でも、こうは言えます。私もそうです。子どもに本当の意味で必要な物を与えているかと言えば確かに疑問です。欲しいと言われたら必要のない玩具を買い与えていたり、本当に必要な物を与えていなかったり(叱ること、教えること)、親バカと言います。でも、親バカでさえ良い物を与えようとしていることは確かです。そこで、イエス様は神様の前で「悪い者」である私たちでさえ、自分の子には善意で関わっているとすれば、天の父が私たちに関わって下さる、その御心はいかに慈しみ深いものか?そのことを私たちに問いかけておられるのではないでしょうか?
私たちは、祈る時、神様にこんなことお願いしても良いだろうか、わがままではないか、しつこいと思われないか?・・・それでも自分にとっては大きなことがあります。本当に聞いていただけるだろうか?またどう祈れば良いのか?そう考えている内に自分の思いに蓋をしてしまうことがないでしょうか?でもイエス様はそんな心配はしなくて良いのだ、安心しなさい、そして祈る際は主の祈りを祈りなさい、そう教えておられるのです。主の祈り、私たちはこの祈りを授かっています。私たちが、親しく「天におられる私たちの父よ!」と呼びかけ、心一つに主の祈りを祈り、神様に願い求めていく、この様な教会こそ喜びに満ちた教会ではないでしょうか?そして、神様はそれこそ真に必要な物として与えてくださるのだ。しかも、私たちが求めているべき良い物、それは実は聖霊なのです。
聖霊は目には見えませんが、イエス様はこの聖霊の与えられる時、私たちは神様がいつも共におられることを知り、また私たちを祈りに導いて下さるお方なのだと語っておられます。
私たちは正直、個人においては祈りにおいて熱心に祈っているかと言えば、実に自信のないものです。しかし、実のところ、それは私たちがイエス様の教えておられることを忘れているだけかもしれません。イエス様はそのような信仰、祈りに熱心に乏しい私たちのためにこそ、この主の祈りを与えて下さったのではないでしょうか?そして、この祈りで執拗に求めなさいと語られたのです。何故なら、その時、父なる神様は必要な聖霊を与えてくださるからです。
イエス様は、この後、私たちのために十字架に架かってくださいました。それは、神様の子である私たちが罪の鎖に苦しみ、死ぬことを放っておく様な恥知らずなことなど出来ない、父のみ旨を果たすためでした。当然、父は御子を死に渡しておくなど恥知らずなお方ではありませんでした。御子を復活させられて、神の栄光を現されました。そして、ご復活の御子は、約束通り、私たちの祈るために必要な聖霊を与えて下さいました。
今週も私たちは主の祈りを共に祈ります。皆で、心一つに心を込めて祈りたいものです。
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