2019年7月21日     聖霊降臨後第6主日(C年)

 

司祭 ヨハネ 石塚秀司

 きょうの福音書にはマルタとマリアの姉妹が登場してきます。主イエスを家に迎え入れたマルタは、さっそく主の手足を洗ったり、お茶を入れたり、食事を作ったりということでありましょう、もてなすために、忙しく動き回りますが、段々といらいらした気持ちになってきます。妹のマリアが少しも手伝おうとしないからです。そのマリアは何をしていたのかといいますと、主の足元に座って、主の語られる話に聞き入っていました。マルタにしてみれば、「話を聞くことは後にして、今はもてなすために手伝ってくれたら良いのに。私だって聞きたいのに、今はそれどころではないじゃないの。」。おそらく、そんないら立った気持ちになっていたのではないかと思います。そこで、その押さえ切れなくなった気持ちを主イエスにぶつけます。「姉妹はわたしだけにもてなしをさせて、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」。

 人間的に考えて、私には、マルタの気持ちが良く分かるような気がしますね。しかし主イエスはそのマルタに向かってこう語りかけます。おそらく優しい愛情のこもった語り口でありましょう。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」。すでに何回も読み、多くの方々に愛されているお話の一つです。

 ところで、皆さんはこんな言葉を聞いたことがあるでしょうか。「真空ノイローゼ」。ある本の中で出会った言葉です。今は真空管というものはほとんど使われなくなりましたが、私が子どもの頃はラジオなどにも使われていました。あの真空管の真空、そしてノイローゼ。どういうことが書かれていたかと言いますと、現代人の心の中に、真空のように満たされない空間がある。どんなに物質的に豊かになっても、毎日をおかしく楽しく過ごしていても、それだけでは満たし得ない空しさ、空間がある。そしてそれは、神様の言葉だけが満たし得る心の空間なんだ、と言う訳です。心の真空を満たされないままに、いらいらいら立っている人間、実は、マルタはそのような人間の姿を象徴しているのではないだろうか。真空状態を本当に満たしてくれるのは、神様の言葉なのに、そのことを後回しにして、といいますか、あるいは気づかないで、目先に迫ってくる忙しさの中で、いら立っている。そんな人間の姿が浮かんできます。

 でも、これは決して他人事ではないですよね。自分も含めて、何かと忙しいこの社会に生きる人たちのほとんどが、ある意味でマルタではないだろうかと思えてくるんですね。ここを読んで、よく、私はマルタ型、あの人はマリア型というような捉え方をすることがありますが、しかし、私たちはみんな、実はマルタのような生活をしているのかも知れない。毎日多くのことに心を配り、思い煩い、忙しさの中で心を取り乱しながら生活している。これが現実ではないでしょうか。いや、そのように生活せざるを得ないと言った方が良いかもしれません。社会のため、会社・職場のため、あるいはまた、家族のため、人々のためにと、動き回っている。しかし、その一方では、心のどこかに空しさを感じてならない。こういうことは確かにあると思うんですね。本当になくてはならないもの、人が人らしく生きるために本当に必要なものが何であるか、このことを心の奥では求めているのに、それが得られないままに、バタバタと時間だけがどんどん過ぎていく、そんな中で、ふっとこみ上げ来る空しさというものが確かにあります。

 実はマリアも、マリアなりにそうであったかもしれません。彼女なりに同じものがあったかもしれない。満たされない空しさです。そして、今まさにマリアは、日常のものでは満たされない心の空間を、本当に満たしてくれるお方に出会ったのではないでしょうか。マリアは今満たされたい一心でその方に夢中になっている。そのように見ることもできるのではないでしょうか。それを主は取り上げてはならないと言われるんです。そしてそれは、39節にあるように、主の足元に座り、主のみ言葉に聞き入ることでした。み言葉を聞くことです。主の口から心に響いてくるみ言葉が、また、そのみ言葉を通して伝わってくる主のご人格が、マリアの心に、どんなに深くしみ込み、潤していったことか、と想像いたします。まさにそこにイエス様との深いところでの出会いと感動がある。そのことこそが、私たちの心を本当に満たしてくれる。そこからこそ信仰の喜びが、福音を伝えそのためにささげていくことの喜びが生まれ、生き生きとした行動が起こってくる、私はそのように信じております。この意味では神様のみ言葉に出会える、こうした礼拝の時が与えられているということは本当に恵みだと思います。私たちは今、このひと時、マルタを離れてマリアを体験しているんです。

 皆さん、こんなことを思うことありませんか。「忙しくて、なかなか教会に行けない」。確かに、毎日の生活、大変です。皆必死に生きています。現役の人たちは、大きなノルマ、多くの難題に追いまくられて必死に働いている。そのことを知りつつも、しかし、であるからこそ私はこのように申し上げたい。忙しければ忙しいほど逆に必要なんだ。その忙しさによって心が亡ぼされないように、忙しい時こそ、むしろマリアである時を持つことを必要としている。そのようにしてこそ、仕事も、毎日の生活も、自分自身も、そして長い目で見てこの社会も、本当の意味で生きてくるのではないでしょうか。私たちクリスチャンは、このことを、今の日本の社会に語っていかなければならないと思うのです。心の問題をどこかに置き去りにしてきた日本の社会に伝えていかなければならないと思います。