2019年5月5日     復活節第3主日(C年)

 

執事 ルカ 柳原健之

「にらめっこして考える」

 分からなかったことが分かるようになる。そんな経験は誰しもあるものではないでしょうか。中学生の頃、数学が分からずに教科書とずっとにらめっこをしながら考えていたら、ある時計算式が理解出来て、問題が解けたという体験があります。問題が解けたその時というのはとても気持ちがよく、スッキリした気分になりました。

 イエスの弟子たちもそのような気分を体験したのでしょうか。場面はイエスが復活され、復活を疑うトマスの前に現れた後。七人の弟子たちが一緒におり、漁に出かけますが、魚は一匹も獲れません。そんなところへイエスは弟子たちの前に再度姿を現されました。しかし、弟子たちにはそれが誰であるのか分かりません。そんな弟子たちにイエスは「船の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」と言われます。弟子たちは誰か分からない者の指示に従い網を打つと、引き上げることが出来ないほどの魚がかかっていました。この直後弟子の一人が「主だ」と叫びます。この瞬間からなのでしょうか、弟子たちは誰だか分からなかった人がイエスだと分かるようになりました。弟子たちはイエスの言葉に従うことによって、イエスであることを理解したのです。

 イエスがおられることを感じ取ることは簡単ではありません。弟子たちにはイエス自身からの呼びかけがあり、それに応えることによって出来ました。では、現代に生きる私たちには?私たちには聖書があります。聖書に記された言葉を通して、イエスは今の私たちに呼びかけられています。呼びかけの言葉はたくさんあります。「隣人を自分のように愛しなさい」「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」「互いに愛し合いなさい」etc…

 イエスの呼びかけに応える方法は決して一つではありません。「隣人を自分のように愛する」、愛を誰かに示すにあたっても様々なやり方、それこそ十人いれば十通りのやり方があるでしょう。決して一つのやり方、決まった答えはありません。ですので、イエスの言葉とじっくり向きあい、時に聖書とにらめっこすることが必要かもしれません。そのことによって出た答え、それを実践していくとき、私たちはその場にイエスがともにおられることを感じられます。イエスが共におられることが分かるとき、それは自分の中に決定的な「答え」が出た喜びのときです。その喜びによって人は強くなれます。イエスの言葉をよく読み、よく聞き、よく考えてみましょう。そして自信を持って出た答えを実践していきたいと思います。そこにイエスは喜びをもって共にいてくださいます。