2019年4月14日     復活前主日(C年)

 

司祭 マーク シュタール

棕櫚の主日

 2000年ほど前にイエスは弟子たちに最後の掟を与えました。それは、今週の聖木曜の最後の晩餐の時です。イエスはこう言われました。「あなた方に新しい掟を与える:互いに愛し合いなさい。私があなた方を愛したようにあなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなた方が私の弟子であることをみなが知るようになる」
 イエス様だけがご自分の運命を理解していました。一人それを背負い、人々に伝えたいという気持ちを強く持っていました。しかし、聖木曜まで他の人たち(弟子たちを含めイエスに従う人々、エルサレムの市民)は喜びの中にいました。この人々はイエスが本当の新しいダビデ、新しい王になると信じ、イスラエルの栄光が永遠に続くと喜んだのです。しかし、その翌日の受苦日で、喜んでいた人々は怖くなりました。特にイエスの弟子たちの気持ちを考えてください。この12人は、いつもイエスの傍らで宣教活動に加わり、ガリラヤ地方にも伴って行きました。多くのイエスの癒しの業を目の当たりにしてきた弟子たち、彼らの落胆ぶりはとても大きなものでした。彼らは、神の国、救い主の到来がやっと来たと心から信じていましたから。まさか、木曜日の晩餐が最後の晩餐になるとは思ってもいなかったのです。
 その木曜日、イエスは静かに最後の掟を告げます。誰もその時点では、最後の晩だとは思っていませんでした。イエスは大事な弟子たちを守りたい、心を強めたいと心から願っていたに違いありません。イエスは言われました。「弟子たちよ、今しばらく、私はあなた方と共にいる。私が行くところにあなた方は来ることができない。」イエスが行くところ、その次の“ステップ“のための準備が掟であったと言えます。イエスの心配は、明日から大変な受難がやってくるが、その時、弟子たちはどうなるだろうかということでした。そこで、自分と同じように努めれば、なんとかなるのではないかと考えたのです。イエスの模範に倣い、イエスの真似をするということです。聖書には私たちにもイエスの模範に倣うよう促しているところはたくさんあります。たとえば、マタイによる福音書5章48節「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」ルカによる福音書6章36節でも「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」エフェソの信徒への手紙5章1節では「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」そして、コリントの信徒への手紙1の11章1節でパウロがこう言っています「わたしがキリスト倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」。
 考えれば、新しいダビデの出現より、このみ言葉の方が一人一人にとってずっと素晴らしい贈り物ではないでしょうか?神様が「完全であられるように」「憐み深いように」「愛されているように」私たちもそれに倣う。「私があなた方を愛したように、あなたがたも愛し合いなさい」これらのみ言葉に強められ、私たちは一人一人、どんなときでも前に一歩を踏み出すことができるのではないでしょうか。
 私たちもキリストの弟子として歩むとき、一人ひとりにとって、神様のご復活が様々な形で表れていることを心に留めたいと思います。イエスはとてつもない誘惑に打ち勝ち、最後は死にも打ち勝ったということを心に刻み、それぞれの励み、力にしたいと思います。私たちが全霊全身で神様を信じ、従うことができたとき、私たちには希望の光が見えてきます。神様が私たちを愛したように互いに愛する存在になれますように。そして、すべてを神様にゆだねていけるようにと祈ります。