司祭 ヨシュア 大藪義之
知らず知らずのうちに
♪ 知らず知らずのうちに 君を好きになって
知らず知らずのうちに 夢を見ていた
知らず知らずのうちに 君の名前を覚えて
知らず知らずのうちに 街を歩いていた
知らず知らずのうちに 君の家を見つけて
知らず知らずのうちに 電話帳を開いた ♪
これは、ダウンタウンブギウギバンド「知らず知らずのうちに」(1973年12月)の歌詞です。宇崎竜童の曲で懐かしくメロディを思い出す方もおられるかと思います。歌の主人公の意識に関わらず、どんどんと彼女?、彼?、に夢中になっていくさまが描かれています。
続けて
♪ 知らず知らずのうちに 君と歩き始めて
知らず知らずのうちに 時も流れて
知らず知らずのうちに 君と暮らしはじめて
知らず知らずのうちに 離れられなくなった ♪
これは恋の歌ですから、彼女に夢中になっていくのは致し方ない、恋は盲目であり、一つの病であるといわれるゆえんです。最後には「離れられなく」なってしまうのです。
大斎節も終盤を迎え、主イエスの十字架の出来事を心に刻む日が近づきましたが、サタンの誘惑というものはまさにこの歌のように「知らず知らずのうちに」私たちの心に忍び寄ってきます。「大斎克己」と言いながら、ついつい「まぁ、これぐらいいいか」と神様との約束を忘れてしまっていることはありませんか?
世は新しい元号が決まったとかでにぎやかです。この世の為政者たちは、やれ万葉集から採っただの、その漢字は別の意味もある、とかの理由をつけ、さもめでたい出来事が起きて皆がお祭り騒ぎのようになっている中、メディアはその狂騒曲のボリュームを大きくし、見聞きする人の心と脳の中に浸潤し、好きにさせ、覚えさせ、自らそれを探し求めて、彷徨(さまよわ)せるのです。そうやって「知らず知らずのうちに」かつての戦争に駆り立てたものが何であったか、その結果どれだけの人が不幸になり、今も苦しんでいるのかを忘れさせ、サタンの試みから「離れられなく」させてしまいます。
憲法は個々人の「思想信条の自由」をうたっていますから、個々人の自由を奪ったり、強制したりすることはできませんが、少なくとも先の大戦に与(くみ)したことを反省し懺悔し、その責任を告白した教団としては、この一連の出来事に浮かれていることはできません。教会の指導的立場にある者は夜回りのごとく、「知らず知らずのうちに」忍び込んでくるサタンの仕業に対して目をしっかりと覚まし、警鐘をならして人々に注意するよう呼びかけることが求められているのではないでしょうか。
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