司祭 クレメント 大岡 創
教会では大斎節の間、「神に立ち帰る」ことを呼びかけ、回心することを勧めます。今日の福音書【ルカ13:1−9】でも、私たちが滅ぼされないための条件として、悔い改めの勧めが与えられていることに気づかされます。さて、何人かのユダヤ人がイエスの所に来て、ピラトがガリラヤ人を殺害したと報告します。しかし、イエスはこの出来事の犠牲者があたかも自ら犯した罪の罰を受けたかのような考え方を厳しく戒めました。さらに、人を断罪するけれども、自分は少しも変わろうとしない人に向かって、「実のならないいちじくの木の譬え」を語られました。植えてから三年が経ち、実を結ばないので園丁に伐採を命じますが、園丁はもう一年待ってくれるよう懇願したという話です。
かつて司牧した教会に「ぶどうの木」がありました。ある年に信徒の方が植えたものです。植えてから実がなるまで約3年かかったと記憶しています。その間、「今年は無理かもしれませんね」という呟きを何度か聞いた覚えがあります。それでも諦めず、丹精こめて世話を続けてこられました。ようやく実が付き始めた時も、謙遜気味に「味はどうかわからんけれど・・・」と言いつつも収穫した初物のぶどうを教会で振る舞って下さったことが印象的でした。
実を結ぶまで、神さまが辛抱強く待っておられたことを想起させてくれたように感じました。このように神さまの憐れみに、わたしを委ねることができますようにと願いたいと思います。
大斎節というのは自らの歩みを謙虚に振り返り、神さまの憐れみにもう一度立ち帰るように招かれているのですから。
さらに、回心とは、それまでの良くない心の状態を良い状態にしていくという意味も含まれています。心を神さまに向けると同時に、心を人々に向けて開くことでもあるというのです。神さまに立ち帰る道は人に心を開くこと。そのために私たちの回心を辛抱強く待ってくださるだけでなく、常にわたしたちの回心を助けてくださることを覚えたいと思います。
|