2019年3月10日     大斎節第1主日(C年)

 

司祭 プリスカ 中尾貢三子

 今日の福音書【ルカ4:1−13】の直前には、イエスさまがヨルダン川で洗礼を受けられたことが記されています。「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」(ルカ3:21−22)
 イエスさまは洗礼を受けられた後、聖霊に満ちてヨルダン川からお帰りになりました。そして“霊”によって荒れ野を引き回され、四十日間悪魔から誘惑をお受けになりました。どんな誘惑だったのか、ここには書かれていません。誘惑の期間が終わるとイエスさまは空腹を覚えられました。そのとき、すかさず悪魔は「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」と言いました。これは、「あなたが神の子ならば、悪魔である自分に対してそれを証明するために、石にパンになるように命令してみろ」ということです。つまり、神様とイエスさまとの間に悪魔が割り込んで、悪魔である自分に対して、イエスさまが神の子であることを証明しろと要求してきたのです。
 これに対して、神の子であることを証明するために石をパンに変える、あるいは変えないというのではなく、「人はパンだけで生きるものではない」という聖書の言葉を引用してお答えになったイエスさまは、悪魔の用意した土俵には乗られませんでした。
 次に悪魔がやったのは世界のすべての国を見せて、自分を拝んだら、これらの国々の一切の権力と繁栄を与えようと言ったことでした。これもまた、悪魔は自分にはそんな権限がないにも関わらず、まるでそれを持っているかのようなふりをして、イエスさまに自分を拝ませようとしました。神の子が悪魔を崇拝させたいという悪魔の側の欲求だったのでしょうか?これに対して、イエスさまは再び聖書を引用して「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」とお答えになりました。
 最後に悪魔はイエスさまを神殿の屋根の端に立たせて「神の子なら、飛び降りてみろ」といいます。これもまた、神の子なら神が天使たちに命じてイエスさまを守らせるだろう=悪魔である自分に対して神の子である証明をしろと迫ったことにほかなりませんでした。
 これに対してもイエスさまは、「あなたの神である主を試してはならない」とお答えになりました。
 悪魔は、イエスさまと神様の間に割り込んで、自分(悪魔)に向かってイエスさまが神の子であることを証明せよと迫りました。それはちょうど、十字架につけられたイエスさまに向かって人々が「神の子なら、降りてこい。そうすれば信じてやろう」とののしったのと同じ構図です。そしてイエスさまは、ご自分と神様との間に誰かを差しはさむことを拒否されました。その人の存在を肯定し、「良し」といわれるのは神様のみであること。そして何よりも神様はその人が何かを知っているから、あるいは何かができるから認めてくださるわけではないのです。むしろ神様以外の誰か/何かに認められるために何かをするというのは間違いなのです。
 ここまで考えてふと気になったことがあります。もしこの誘惑がもっと巧みなものだったら、果たしてここまで誘惑を退けきることができたでしょうか。例えば飢えた子どもがそばにいて、石をパンに変えて子どもに食べさせたら?と言われたらどうなったでしょうか。あるいは強大な暴力に命を脅かされている子どもを助ける権力と地位を得るために悪魔を崇拝しろと言われたら?または子どもの命を守るために神様が自分の側にいらっしゃることを証明するために奇跡を行えと求められたら?
 今の現実社会で起きている「わかりやすさ」を求める風潮は、もしかしたらこの悪魔の誘惑がもっと巧妙に仕掛けられている状態なのかもしれないと思わされています。
 イエスさまに倣って生きたいと願う私たちにとって、複雑さを併せ持ったいのちそのまま丸ごと受け止め、大切に守ることなのではないでしょうか。黒/白が簡単につけられるほど単純ではないこの世界の中で、複雑であいまいな命に踏みとどまり続けることと、たやすい答えに逃げ込んでいないかと自問自答すること。そのことが求められているのではないでしょうか。